sweetness
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8・過去
■0時間
意識を失っていたのは、どれくらいの間だったのだろうか。
間近に感じた気配に、八戒はゆっくりと意識を取り戻した。
目を開けようとして、瞼を覆うものの違和感に眉を顰める。
体中に重く残る疲労と快楽の名残に、今置かれている状況を思い出した。
再び泥の中に沈んでいこうとする意識に何とか抗うと、そっと目元の布に触れてみる。
闇に閉ざされていた瞳には暗い室内灯さえ眩しくて、一瞬八戒は強く眼を閉じた。
だが痛みを堪え僅かにできた細布の隙間から、目を凝らして部屋の様子を窺った。
そして明るさに慣れた頃霞む目が捉えたのは、傍らに佇む男の姿だった。
ジーンズを身に着けただけの姿で男は背中を向けていた。
頭から被ったタオルのせいで、その顔も髪も見ることができない。
シャワーの後なのだろうか、濡れた髪から落ちたらしい雫が、数滴背中を流れ落ちていた。
八戒は大きく目を見開いた。
余分なものの一切ない、引き締まった背中。
その背中には、確かに見覚えがあった。
心臓が早鐘のように鳴り出して息ができない。
信じられないけれど、やはりこの男は…
その時、その背にくっきりと浮き出た左右の肩甲骨の間に引かれた、一筋の傷が目に入った。
鮮やかな、できたばかりの紅い傷。
痛々しさを感じるよりも、その紅の美しさに、八戒は目を奪われた。
そしてそれが自分のつけた爪痕だと気づいた瞬間、八戒は大きく震えた。
胸の奥から湧き上がったのは僅かな罪悪感と、この男に印をつけたという何とも言えない高揚感。
「!」
次の瞬間、目の前は暗闇に戻った。
男が大きな掌で八戒の瞳を覆ったのだ。
だがその闇は先ほどまでとは違って、温もりを感じさせてくれるものだった。
「契約違反」
耳元に落とし込まれた囁きに息をのむ。
男が今夜初めて発した言葉だった。
その声は低く甘く、限りなく悟浄に似ている。
彼が女性を口説く時にはこんな声を出すのだろうか。
口説かれたことなどないから、わからないけれど。
「ご…」
思わず口をついた呼びかけは、だが声にはならなかった。
八戒の言葉を飲み込むように塞がれた唇は痛いほどで、八戒は声にならない叫びを上げた。
全てを奪い尽くすような激しい口付けに息もつけない。
もがく八戒を抱きしめる男の腕の強さと甘さに、縛られたように動けなかった。
「…んっ…ぁ…っ」
唾液を交わすような深い口付けに頭の芯が痺れる頃、八戒の瞳は再び温かみのない無粋な布に覆われていた。
名残を惜しむようにゆっくりと唇が離れる。
男の指が、まるで愛おしむように八戒の髪をかきあげた。
それから一言も声にすることなく、男は部屋を出て行った。
ドアの閉まる音が消えると、部屋の中は静寂に戻った。
八戒はぐったりとベッドに身を預けながら、身動き一つしなかった。
静けさの中でじっと横たわっていると、男と過ごした時間が幻だったような感覚に襲われる。
だが体中に重く残る疲労と垣間見た紅の鮮やかさは、確かに八戒の中に存在していた。
八戒はゆっくりと腕を上げて、瞼を覆う布を取り去った。
まだ少し震えている両手を目の前に翳して、目を細める。
右手の中指の爪先に残る紅。
鉄錆びた匂いとは不似合いに、それは舐めると甘かった。