sweetness


9・再び、現在




派手な水音と笑い声に、八戒はふと目を開けた。

夢から覚めたようにあたりを見回すと、悟浄に投げ飛ばされた悟空が飛沫を撒き散らしながら立ち上がるところだった。
仕返しとばかりに今度は悟浄を追いかけ始める。
三蔵は我関せずと、新聞を読みふけっている。
殺伐とした日々が嘘のような、穏やかな時間だった。


投げたり投げられたり、の過激な鬼ごっこに興じていた悟浄は、暫くすると岸に上がってきた。
ぼんやりと二人の様子を見ていた八戒の隣に座ると、まだ濡れている手で脱ぎ捨ててあったシャツのポケットを探り、注意深く煙草を取り出した。

「もう終わりですか?」
「選手交代」
煙草の煙を吐き出しながら、あの馬鹿力にはついていけねぇわ、と呟いた。
遊び相手のいなくなった悟空は、三蔵に狙いを定めたようだった。



「夜遊びが過ぎますよ」
やんわりと嗜める八戒に、悟浄は小さく肩を竦めた。
「これくらい、旅に出る前はよくあったっしょ?」
「もう若くはないですし」
くすくす笑う八戒に、悟浄は思いっきり嫌な顔を作って見せる。
「三蔵が心配します」
悟浄が薄く微笑む。
「誰を心配してるんだかな」
自分の周りの人は、みんな優しすぎるのだ。



目の前の少し疲れた横顔を眺めながら、八戒はあの夜のことを思い返してみた。

抱き合っている間中感じていた馴染みのある匂い、見覚えのある背中、溶けるように甘い囁き。

翌日帰宅した悟浄からは、今朝のようにきつい香水の香りがしていた。
朝帰りの言い訳もそこそこに風呂に入るとシャツを脱ぎ捨てたその背中には、わざとらしいほどたくさんの爪痕が残されていた。
”木葉を隠すには森の中”という言葉が思い浮かんだが、八戒は何も訊けなかった。


悟浄からあの夜の出来事を匂わせる素振りや気配を、微塵も感じたことはない。
今でも時折八戒は考える。
あれは全て夢だったのではないか。
あんな荒唐無稽な出来事は、自分の深すぎる想いが作り出した妄想だったのではないかと。


あれから八戒があの店に行くことは二度となかった。
あの男とも会っていない…はずだ。
あれが、目の前の男だった。というのでなければ。



「傷、痛そうですね」
「そうでもないけど」
悟浄は首をひねって背中の傷を見ようとしたが、上手く視界に入らないようだった。
「自分じゃ見えねーしな」
この男にとって、見えなければそれは存在しないと同じなのかもしれない。

それでも。
八戒は自分の右手の指先を見つめた。
この爪の先に灯った紅は。溶けるように胸にしみた甘さは。
確かにあの時、あったのだ。



「消毒しておいたほうがいいんじゃないですか?」
八戒が背中を覗き込むと、悟浄はどうでもいいように小さく笑った。
「こんなモン、舐めときゃ治るだろ」
「でもその場所は、自分では無理でしょう?」


あの男が悟浄だったのか、未だにわからない。
わからないから、今でも自分は悟浄の傍から離れられない。
あの夜眼を覆った薄布のように、この想いを覆い隠しながら時は流れた。
何も考えず何も思わず、心を鈍くして痛みをやり過ごせば、いつかこの想いも風化してゆくのだろうか。
それとも…
自分たちはこのまま、どこまで行けるのだろう?



跳ね上がる水音に混ざって、悟空のはしゃいだ笑い声と三蔵の怒鳴り声が聞こえてくる。
結局三蔵は悟空のおねだりに負けて、川に引きずり込まれていた。
何だかんだいいながら、三蔵は悟空に甘いし、悟空は三蔵に優しい。
きっと彼らは背中に爪痕など残したりしない。
互いを所有する証など必要ないのだろう。
でもそんなキレイなものに、自分はなれない。と八戒は知っている。




そっと目の前の背中の傷に指を這わせた。
昨夜の女の証。
その下に眠っているはずの自分の証。


振り向いた悟浄の目がひどく真剣で、八戒は少し泣きたくなった。

目を閉じてその背に唇を寄せると、そこはあの日と同じように甘かった。









end




(2008.11.08)

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