sweetness




7・過去

■2時間前




小さな部屋の中は静か過ぎて、耳が痛くなる程だった。
自ら作り出した闇に絡めとられたように、上手く身動きができない。
この部屋に入ってから、身体中がひどく冷え切っていた。
八戒は息苦しさを感じて小さく息を吐いた。
思いがけず大きく響いた自分の吐息にびくっと肩を揺らすと、俯いたままの顔を歪めた。

馬鹿げている。
こんなことをして、何の意味があるのだろう。
金銭的な理由など建前だ。金が必要ならば、悟浄のようにどこかの賭場で稼ぐ方がきっと手っ取り早いのだから。
自分はただ自棄になっているだけだとわかっていた。
愚かな自分を、誰かに罰してもらいたいだけなのだ。見も知らない、通りすがりの他人に汚れ役を押しつけて。
なんて都合のいい贖罪だろう。



その時、唐突に物音がした。
扉が開く重い音を耳にして、ゆっくりと顔を上げる。
八戒は見えない眼を凝らすように軽く眉を顰めて、扉の閉まる音を聞いていた。
これから始まる行為を思えば動揺してもおかしくないはずなのに、自嘲の思いに沈む心は不思議な程凪いでいる。
だが人の気配はするものの、いつまでたっても靴音は近づいてこなかった。
その人物は室内に入ったものの、扉の内に佇んでいるようだ。
品定めでもしているのかもしれない、と考えて、八戒は妙に冷めた気持ちで相手の出方を待った。

「!」

だがその人物が動く気配を感じた瞬間、八戒の胸は大きく音をたてた。
それまで部屋に立ち込めていた、のし掛かるような重い空気に混ざって届いた匂い。
それを感じるだけであの人を思いださせる深く苦い匂い。
悟浄が好む煙草の香りだった。
これは何という皮肉な偶然なんだろう。


男はベッドに座る八戒の前へと歩み寄ると、動きを止めたようだった。
男は何も話さなかった。
目隠しをしていてもじっと注がれる視線を肌で感じて、八戒の頬に熱が集まる。
冷えていた身体にゆっくりと熱が巡り始めた。
息使いすら感じさせずに、男は八戒の傍らに立ち尽くしている。
それでも男は、何も語りかけてはこなかった。

何秒、いや、何十秒たっただろう?
息がつまるような沈黙に耐えかねて八戒が口を開こうとした時だった。
温かい何かが、そっと唇に触れた。
それはゆっくりと八戒の唇をなぞり、驚きに固まる唇を慎重に割り開いて口中に侵入してきた。
反射的に歯をたてた八戒は、その感触から男が指を咥えさせたのだと知った。
男は八戒の動きに動じることなく、更に深く指を入れ舌に触れてくる。
「は…っ…ぁあ」
歯の付け根の辺りに触れて歯列をなぞるかと思えば、二本の指で舌を挟むようにゆるゆると撫でる。
器用な指先が遠慮なく口内を這いまわり、粘膜を刺激する。
漏れる吐息と唾液を抑えきれず、ついに八戒は自ら男の指に舌を絡めた。

相手が見えない、次に何をされるのかわからないということは、想像以上に不安をかきたてる。
だが男の匂いは、不思議に八戒を落ち着かせた。
この数ヶ月、嫌というほど八戒の周りに漂っていた匂いだった。
馴染みすぎて自分にも染み付いてしまったのではないかとさえ思う程に。
不自然に作り出された暗闇の中で、愛する男の匂いと自分が立てる水音だけが八戒を包み込む。
八戒はいつのまにか夢中で舌を絡めていた。


男は空いている手で器用に八戒の服を脱がせにかかった。
シャツのボタンが外されていく感触に、八戒も半ば熱でぼんやりとしながらも、自ら体を動かしそれを助けた。
以前の経験から自ら奉仕しようと、八戒は男の身体に腕を伸ばした。
衣服を寛げようと手探りすると、男は必要ないとばかりに八戒を押しとどめる。
ベッドに横になるように促され、八戒は戸惑いながらも従った。

男は一言も発さなかった。
慎重なことだ、と八戒は感心していた。だがこんな状況で言葉を交わす気恥ずかしさから逃れられて、内心安堵していた。
男は意図的に、中途半端な状態に八戒の衣服を寛げたようだった。
シャツの袖は手首に、ズボンは足元に纏わりつき、八戒の自由を緩やかに奪っている。
その気になれば簡単に解ける程の縛めが、八戒の胸の中に残るためらいを麻痺させた。

相当慣れしているらしく、男の愛撫は巧みだった。
首筋をなで上げ髪を弄る指先や、耳許に這う唇。何のためらいもなく胸から腹へ、さらに下へと滑り降りる掌。その後を追う舌。
男は怖いくらいに的確に触れて、舐めて、かき混ぜる。
自分の薄い胸が、背骨が、膝の裏が、足の指先が、腹に残る疵痕までもが、汗に湿って男から与えられる刺激を歓び待っている。
与えられるだけの一方的な愛撫に戸惑いながらも、八戒は浅ましいほど昂ぶる自分を止めることができなかった。
瞼を覆う一枚の頼りない布が、ひどく際どい快楽を生み出すものだと思い知らされる。
最早数年ぶりだからという言い訳もできない程に、男のもたらす快楽に翻弄されていた。

だがこの劣情を引き出しているのは、男の巧みさや快感を高める小道具だけではないのだ。
そのことが、どうしようもなく八戒の胸を締め付けた。

閉ざされた視界の中で感じる男の匂いに、全身の産毛がざわめく。
慣れすぎた匂いが、湧き上がる情欲をひどく煽る。
見知らぬ男と目隠し越しで抱き合うなど気違いじみているという揺れる思いも、男の匂いが惑わせてくれた。
まるで以前からこうして抱き合っていたかのように、男の熱は八戒に馴染んでいる。
以前から知っている――― そう、自分はこの腕の熱さを知っている。
たとえばふとした瞬間、悟浄に触れた時。ふざけあって、何気なく肩に悟浄の腕がまわされた時。
触れた掌が、肩が…感じ、密かに持て余していた熱。
今、触れたところから痺れるように自分を狂わせていくこの熱さは、それにとてもよく似ている。
まるで今、あの人と抱き合っているかのように。

八戒は自嘲の思いにきつく唇を噛み締めた。
なんて身勝手な幻想。
同じ煙草を吸う者など、きっとこの町に何十人もいるに違いないのに。


罰の意味を求めてこの行為を望んだはずなのに、八戒はいつしか快楽に飲み込まれ抜け出せなくなっていた。
じわじわと押し寄せる波に、抗うように身を捩る。
緩やかな縛めはとっくに意味をなさず、縋るものを求めて力の入らない腕がシーツの上を彷徨った。
決して乱暴ではなく、だが優しいだけでもない愛撫は、確実に八戒を追い詰めていく。
抑えきれない喘ぎが切ない悲鳴に変わり、一気に極みに向かって押し上げられた瞬間。
八戒は男に後腔を弄られ、自身を男の口に含まれながら達していた。






視界を奪われたまま達した八戒を気遣うように、男の掌が八戒の頬に触れた。
身体中に染み渡る射精の余韻と治まりきらない荒い息の中、八戒はぼんやりと考えた。
なぜこの男は、見知らぬ自分をこんなに丁寧に抱くのだろう。
これは取引なのだから、欲求に任せて切り裂いてくれて構わないのに。
それこそが、自分の求めるものだったのに…

やがて僅かに残る衣服を取り去られると、八戒は男を受け入れる姿勢を取らされた。
視界を奪われたままの行為にぎこちなく身を堅くする八戒を宥めるように、男は八戒の頬や額に口付けを落としていく。

その時、何かが八戒の頬に触れた。
さらさらと頬に感じた冷たい感触に、八戒は息をのんだ。
昼間の記憶が鮮やかに蘇る。
この感触。
まさか、この男…

「!」

反射的に、燃えるような紅を求めて腕を伸ばしていた。
だがその指先は、力強い指に絡めとられベッドに縫いつけられた。
同時に身体の内に感じた熱い塊。
充分に慣らされた身体は、驚き戸惑う心とは裏腹に、歓んでその熱を迎え入れた。
信じられないほど強い快感に一気に身体中を熱が廻り、何も考えられない。
理性を振り絞って熱い腕から逃れようと身を捩っても、引き戻され更に突き上げられる。
問いかけを発しようとしても、意味をなさない嬌声だけが口から零れ出た。
煽られる情欲に、振り回される。


わからない…悟浄は男と寝たりしない。
昼間自分の耳で聞いた言葉を思い浮かべ、八戒は唇を噛んだ。
今頃はいつものように、きれいな女性とベッドの中に違いないのだ。
ここにいる筈はないと分かっている。
分かっているのに…

「―――」

徐々に惑乱する意識の中で、八戒は気づくとその名を口にしていた。
闇の中の八戒には、それが男に届いていたのかわからない。
極限まで追い上げられ突き落とされて、八戒の意識は本当の闇の中に沈んでいった。







(2008.10.31)

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