sweetness
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6・過去
■3時間前
その店は、何の変哲もない店のように見えた。
流行のカフェなどという洒落たものではなく、かといって老舗の喫茶店という重厚な雰囲気でもない。
時代に取り残されてほとんどの人から忘れられている、どの街にも一軒はあるような古びた喫茶店。
間口は狭く奥行きも然程あるように見えないその平屋の建物は、表通りから数本外れた路地の一角で薄暗い外灯に照らされて、くたびれたふうに建っていた。
八戒は店の前に立つと、所在無げに並ぶガラスケースを見下ろした。
中には白いコーヒーカップが一セット。お約束のように、倒れたカップの中から真っ黒いコーヒー豆がこぼれ出ている。
だがせっかっくの趣向も、埃を被って灰色に汚れたガラスのせいでよく見えなかった。
通りに面して小さな窓があったが、日に焼けて変色したサテンのカーテンに遮られて、室内の様子は覗うことができない。
扉に据え付けられている鈍色に変色したライオンのドアノッカーを眺めながら、八戒は迷いを振り切るようにノブに手をかけた。
軽くまわすと、薄汚れた扉は意外なほど滑らかに開いた。
ドアを開けると、緊張に強張った八戒を温かい空気が包み込んだ。
部屋の中は思っていたより明るかった。
外観から薄暗く埃っぽい印象を抱いていたのだが、暖かい色に照らされた室内には落ち着いた音楽が流れ、コーヒーの香りが漂っている。
「あれ?あんた…」
入り口で立ちすくむ八戒に、カウンターの中にいた趙という男が小さく首を捻った。
「あぁ、昼間の、市場のコ」
拍子抜けするほど素っ気ない言葉で迎えると、身振りで八戒をカウンターに座らせた。
八戒は勧められた椅子に腰掛けながら、店の中を見回した。
まだ宵の口のこの時間は、中途半端なのだろうか。
店の中に客の姿はなかった。
狭いカウンターとボックス席が四つ。壁には色あせた風景写真と手書きのメニュー。
本当にありきたりな店だった。
殺風景なくらいの店内の様子からは、いかがわしさや猥雑さは微塵も感じられない。
壁やカウンターに残された傷や汚れ染みを目にしながら、こんな所でどうやって売春宿を営んでいるのだろうと考えた。
「注文は?」
遠慮なく店内を見回す八戒に、男がカウンターの中から問いかけた。
年は八戒より十ばかり上だろうか。
よく見ると、切れ長の目の鋭さが少し悟浄に似ていた。
昼間は浮ついた印象があったが、今はこちらが気後れするほど愛想がない。
八戒は首を横に振ると、自分から用件をきりだした。
「ここで、仕事を紹介してくれるんですよね」
「どんな仕事か知ってんの?」
「えぇ、だいたいのところは」
強い香りのする煙草をふかしながら、男は観察するような視線をむけてくる。
負けじと見つめ返せば、男は片眉を上げてニヤリと笑った。
「ふーん。誰に聞いたの?」
その問いに、よけいな詮索など不要だとばかりに八戒は微笑みを返した。
男は小さく肩をすくめると、いくつか質問をした。
経験者?病気は大丈夫?
うちは常連ばっかりだからヘンな客はいないから、安心して。
今晩だけ?まぁいいけど。
今夜一度限りという条件を、趙は拍子抜けするほどあっさりと了承した。
次いで料金、時間などを告げられて、簡単に契約を交わした。
どれも妥当な条件と思われた。
ただ一つ八戒が戸惑ったのは、部屋に入ったら目隠しを付け最後まで外さない、という条件だった。
思わぬ事態に困惑して、八戒は尋ねた。
「それは…そういう趣向なんですか?」
「まぁそれもあるんだけど。狭い街だし、顔を見ちまえば互いに都合の悪いこともあるだろ?」
確かにそうだろうが。
目を塞いだまま見知らぬ人間と抱きあうなど、正気ではないと思われた。
「どうする?やめとくか?」
どうでもいいような口ぶりで趙が尋ねる。
「やりますよ」
八戒はまっすぐに視線を返した。
悟浄を好きになった時から、きっと自分は正気じゃないのだ。
店の奥の手洗いの横に巧妙に作られた隠し扉があり、地下へと続く階段が続いていた。
狭い階段を降りながら、こんなことが三蔵に知れたら撃ち殺されそうだ。と考えて、八戒は歪んだ笑いを浮かべた。
降りた先には薄暗い廊下があり、片側に部屋が並んでいた。
どの部屋の扉にも小さなガラスの窓がはめてあり、いくつかの小窓は内側からカーテンが引かれている。
その部屋は営業中ということらしい。
売りたい者は目隠しを付けて部屋で待つ。買いたい者は小窓から品定めをして気に入れば部屋に入り小窓のカーテンを閉めるのだ、と趙は説明した。
「防音はばっちりだから、安心しな」
趙は軽くウインクをした。
防音に優れているという扉は、厚く重そうだ。
確かにどの部屋からも全く物音がしなかった。
趙は一番突き当たりの部屋のドアを開けて八戒を招き入れると、目隠しを忘れるな、と言って立ち去った。
重いドアが閉まると急に息苦しさに襲われて、八戒は深く息を吸った。
気を紛らわすようにゆっくりと部屋を見回してみる。
狭い部屋に不自然に大きなベッドが置かれおり、続きの小部屋にはシャワールームがあるようだった。
簡素な、ただ目的を果たすためだけの部屋だった。
八戒はベッドに腰掛けてサイドボードに載せられた布を手に取った。
しっとりと柔らかな絹の細布だった。
八戒は暫く手の中の布を眺めてから、迷いを振り切るように瞼に当てた。
一本の細布が、ひんやりと不自然な闇を作り出した。