sweetness
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5・過去
■12時間前
「コレ、どうしたの?」
「!」
ふいに背中越しにかけられた声に振り向いた八戒は、悟浄が手にしているものを見て目を瞠った。
それは先ほど買い物に行った市場で、見知らぬ男に手渡されたものだった。
妙に馴れ馴れしいその男は、「いい稼ぎ口があるから…」と言いながら、強引に一枚の紙片を押し付けてきた。
困惑する八戒の呼びかけには答えずにやりと笑うと、すぐに男はひらひらと手を振りながら人ごみに消えてしまった。
どうせ怪しげな勧誘の類だろう。
眉を顰めその後姿を見送った八戒は、手の中のものをその辺りに捨てるわけにもいかず、ろくに見ずにシャツのポケットにつっこんできたのだった。
八戒はシャツの胸ポケットを押さえながら、悟浄の指先で玩ばれるように揺れる紙片を見つめた。
一体いつの間に抜き取ったのだろうか?
悟浄の素早さに感心しながら、八戒は小さく肩をすくめた。
「さっき市場でもらったんです。いい稼ぎ口を紹介してくれるそうですよ」
「…ココ、やめといたほうがいいぜ」
その声に不可解な響きを感じて、八戒は悟浄の瞳に視線を移した。
まっすぐ向けられた紅い瞳。その瞳の奥底に、見たことのない光が浮かんでいた。
そこに宿るものが何なのか読み取れない。不安なのか戸惑いなのか怒りなのか。
ただ、愉快な感情でないことだけは確かだった。
八戒はひどく落ち着かない気持ちになった。
「知っているんですか?」
「趙のオヤジだろ」
確かにその男は、趙と名乗っていた。
「そこ、娼館だぜ」
「は?」
「男専門の売春宿」
思いがけない言葉に八戒は目を見開いた。
「そんなものが、この街にあるんですか?」
「あぁ。ちょっと見は普通の喫茶店なんだが、実は…ってやつだ」
悟浄の瞳の色がどんどん濃くなって、こちらに迫ってくるように感じられる。
それなのに表面上は、いつものように軽い調子で言葉を交わしている。
そのアンバランスな感じが、八戒を不安にさせていた。
まるで責められているようだ。
でも、何故?
「…スカウトされたってことなんでしょうか?」
「それっぽいキレイな男には、しょっちゅう声をかけてるらしいからな」
悟浄はつまらなそうに笑うと、紙片を引き裂いて握りつぶし、部屋の隅に向かって放り投げた。
きれいな弧を描いて、それがゴミ箱の中に収まる。
その瞬間、悟浄の瞳から奇妙な光が消えた。
煙草を取り出した悟浄に灰皿を手渡しながら、八戒は考えた。
悟浄の様子がおかしいのは、趙という男と何か因縁があるのかもしれない。
悟浄は煙草に火をつけながら皮肉気に笑った。
「でもお前に声かけるなんて、お門違いもいいとこだな」
「ええ」
八戒は僅かに目を見開くと、にっこりと微笑んだ。
だが、強ちお門違いでもないのだ。
花喃と巡り会う前の暗い記憶が頭を過ぎる。 それは、とても大きな声で語れるものではなかった。
孤児院出の身にとって支給される僅かな奨学金で勉強を続けるのは難しく、金を工面する手立てとしてこの身体を売ったことは一度や二度ではない。
相手が女性ばかりとは限らなかった。
「悟浄は行ったことあるんですか?」
八戒はゴミ箱を指差しながら尋ねた。
「まっさか〜」
とんでもないというように、悟浄は片眉を上げた。
「誰が男となんか寝るかっつーの。巷にはキレイなお姉さんが溢れてるっていうのにさ」
「…そうですよね」
胸のどこかが掴まれたように痛んだ。
もう一眠りするわ、と大きな欠伸をしながら自室に消えた悟浄を見送ると、八戒は力なくソファに座り込んだ。
悟浄の言葉は胸に刺さった。
分かっていたはずなのに…この想いは受け入れられることはないのだ。
彼の傍に居るためには、今までと同じように友人としての関係を続けていくしかない。
それ以上でもそれ以下でもない関係を。
想像もしなかった穏やかな日々、気の置けない同居人。
それだけで十分過ぎるはず。それだけで自分は満足なはずだ。
八戒は今まで何度も言い聞かせてきた言葉を、胸の内で繰り返した。
だが今は、そんな言葉では抑えられない自分の弱さをはっきりと自覚していた。
つくづく自分は欲深くできている。 もう何事にも執着しないなどと言いながら。
過ぎる恋情は執着を呼び、強すぎる執着は理性を危うくする。
このままでは、自分は何をするかわからない。
彼女の時のように…
ひやりとする感覚に、八戒は息をのんだ。
突然足元からじわじわとわき上がった恐怖に、思わず立ち上がる。
ここに居てはいけない。
この気持ちが揺らがないうちに、一日も早くここを出て行かなければ。
悟浄の消えたドアを見つめて、強く思った。
だが今すぐにこの町を離れるには、少々の問題があった。
一つは三蔵の許可が要るということ。だがこれは、事後報告でも何とかなるだろう。
もう一つは、金銭的なことだった。
この数ヶ月の間、八戒には収入がなかった。
何度か三蔵から雑事を依頼されその報酬として渡された幾許の金銭は貯めてはあったが、別の街へ行くには心許ない額だった。
何とかしなければ。しかもなるべく早く。
その時何かに呼ばれるように、八戒の視線は部屋の隅に置かれたゴミ箱に吸い寄せられた。
それは決して人に誇れるものではないし、軽率な思いつきだと十分わかっている。
何度か味わったことがある暗い自虐の想いに目を伏せながら、八戒は立ち上がった。
ゆっくりとゴミ箱に近づくと、引き裂かれクシャクシャにまるめられた紙片を取り出す。
丁寧に皺を伸ばすと紙片を掌に並べてみた。
簡単な地図の記されたその紙を、八戒は瞬きもせずに見つめていた。