sweetness
3・過去
■三日前・夜半
八戒は先ほどから、読みかけの本を探していた。
居間には見当たらなかった。
そういえば昼間衣類と一緒に部屋に持っていったかもしれない、と思いつく。
八戒は自室のドアを開け灯りをつけると、部屋を見回した。
大して広い部屋ではない。六畳ほどの東向きの部屋。
自分が転がりこんでくるまで、同居人はここを物置として使っていたようだった。
窓際に置かれたベッドも部屋の隅の小さな物入れも、以前誰かが使っていたものらしい。
誰のものか、尋ねたことはなかった。
ここであの、自称イロオトコと暮らしていた女がいたとしても、何の不思議はない。
鷭里という男とは、ともに暮らしていたということだし。
ふと思い浮かんだその名に、八戒は小さく眉をひそめた。
寝返りするたびに随分と苦しげな音をたてたが、ベッドは使うことができた。
物入れは歪んで傷つき扉が外れかけていたが、使えないほどではなかった。
新しいものを用意する、と言う悟浄の申し出を丁寧に断って、八戒は修理にとりかかった。
適当な修理にもかかわらず、不用品はなんとか使用可能なものに生まれ変わった。
ここに住むようになってもう半年程になる。
同居を始めた当初の自分たちの生活を思い返して、八戒は小さく微笑んだ。
あの頃の悟浄からは、誰か特定の人間と濃密な関係を過ごした経験がある様子が感じられなかった。
だがそれは、多分に自分のせいだったのだろう。
自分と悟浄とは、生活習慣も嗜好も随分と違っている。
自分の存在が彼のペースを乱していたのだろうし、彼が戸惑い苛立つのも当然だった。
だが互いに背負っているものの重みを理解したいと感じた時から、二人の間にあった当惑や緊張はなくなった。
そう考えれば、あの、鷭里という男との一騒動が、自分と悟浄の距離を近づけることに一役買ったのは確かだった。
探し物はベッドの周りには見当たらなかった。
八戒は軋んだ音をたてながら開く物入れの扉に手を伸ばした。
扉の内に収められているのは、数枚の衣類と必要最小限の日用品。細やかな娯楽の品である数冊の本とくたびれた鞄。
これが八戒の全財産だ。
鞄は慶雲院からこの家に来た時に手にしていたものだった。
そしてつい数ヶ月前、ここを出て行くと決めた時にもこの鞄を手にしていた。
結局雨の中、馬鹿な男を奪い返して戻ってきてしまったのだが。
大した量ではないのに、今では八戒の私物はこの鞄に収まりきれないほどに増えていた。
困ったことだ、と思う。
なるべくこの家に馴染まないようにしていたつもりなのに。
いつ出て行けと言われてもおかしくない身なのだ。
だが悟浄がその言葉を口にすることはない、と八戒にはわかっていた。
甘い男だ。
女性だけでなく、こんな自分にまでも。
友人だという男に騙され殺されかけた時にも、仕方ないとでもいう風で笑っていた。
薄暗い地下室に彼を助けに行ったあの夜。
八戒の姿を捉えた時に浮かべた悟浄の表情は、死に損なったとでもいうような諦めた笑いに見えた。
彼が抱える絶望の深さを目にした瞬間、八戒の中でそれまでぼんやりとしていた想いがはっきりと形をもった。
゛悟浄が好きだ。゛
それは、自分の愚かさを痛い程思い知らされた瞬間だった。
よりによって、相手は悟浄だ。
無類の女好き。ヤクザ紛いの不法なことなど何とも思わないチンピラのくせに、死にかけている大罪人を助けてくれるようなお人よし。
自分など到底及ばない程の優しさと純粋さを持ちながら、同時にその命など簡単に手放してしまう程深い絶望を隠し持った男。
三蔵に不審がられながらも、言い訳にしかならない理由を口にして悟浄と暮らすことを選んだのは、ただ、彼の傍にいたかったからだ。
彼の紅をもう一度目にしたい。
三蔵の監視下に置かれていた間、その想いだけが生と死の境で揺れ動く八戒の気持ちを生きることに向かわせていた。
そして今でも、その想いは続いている。
だがその気持ちが゛愛情 ゛なのだと、八戒はあの表情を目にする瞬間まで思いもしていなかったのだ。
その時以来、八戒は自分の中にあるその想いを持て余していた。
端から告げる気などないし、それを悟浄に知られることさえ耐えられない。
何より、もう何かに執着したくないのだ。
自分にとって、過ぎる執着が危険だと、嫌と言うほど判っている。
血生臭い記憶は、いつでも手元に引き寄せられるほどに鮮烈だった。
もしかしたらこの想いは火傷のようなもので、このまま時が過ぎれば消えていくものかもしれない。
気を紛らわすように、そんなことを考えてもみた。
だが最近では目を背けることができないほどに、その想いは胸に食い込んでくる。
女性と連れ立った悟浄の姿を目にしただけで、痛みを感じるこの気持ちは何なのか。
どうせ生まれ変わるなら、心も強く、そして鈍くなりたかった。
いや。
こうやって再び自分の欲深さと罪の意識に向き合い苦しむことこそが、生まれ変わりの目的なのかもしれない。
八戒はとりとめのない想いにため息をつきながら、探し出した本に手を伸ばした。
ふと、物入れの隅にひっそりと置かれた鞄に目をやり考える。
次にこの鞄を手にするのはいつだろう?
それは、そう遠いことではないかもしれない。