over the rain
4.
昔は雨が好きだった。
書き物をするあの人の傍で雨を眺めながら控えていた時間は、言葉はなくとも満ち足りていた。
時折、名を呼ばれ、茶を所望され言葉を交わした。
あの頃はわからなかった師の微笑みの意味を、今なら理解することができる。
あれが愛情だったのだと。
我が子のように慈しみ育ててくれたあの人を自分のせいで死なせた日から、雨は、後悔と自己嫌悪を連れてくるものになった。
復讐に我を忘れることも、絶望に死を選ぶこともできず、重い体を引きずりながら生きてきた。
たどり着いた場所で“三蔵”として生きる覚悟を決めたが、それでもなお、この身には自分の弱さへの怒りが燻り続けている。
それは雨が降るたびに、焦りに似た苛立ちを呼び起こす。
降り続く雨に気が滅入り、周囲の者にあたり散らす自分にさらに苛立つ悪循環に耐えかねて、激しくなる雨の中、寺を出たのはどれ程前だったか。
気がつくと、この場所にきていた。
持って出たはずの傘はどこかに置いてきたようで、清々しいほど全身濡れ鼠だ。
髪をつたい足元に滴り落ちる雨に目をやりながら、この場所に血塗れで倒れていたという男のことを考えた。
愚かで頑なで、きれいな男。
愛した女への想いだけで、その身を妖怪へ変化させた、信じがたい言い伝えの体現者。
三蔵などと大層な名で呼ばれながら、内に度し難い闇を抱えている自分を俺はいつも嗤っていた。
だから目の前に現れた猪悟能という男の存在は衝撃だった。
愛した女のために全てを捨て、死さえ厭わなかった大量殺戮者。
俺が果たせなかった、越えられなかった一線をためらいなく越えた潔さに、惹かれないはずがない。
騒動が収まった後、近くに置いて名を与え目を与えても、男の闇は塞がらなかった。
今でもあいつは、柔らかな笑顔と物腰の奥に怒りと絶望を潜ませたままだ。
その身食いするような狂気や一途さを、俺は恐ろしいと思いながら、羨んでいる。
欲しながら憎み、壊したいと思いながら、安らかであってほしいと願っている。
全く矛盾している。
渦を巻いて頭の中を巡る名付けがたい感情に舌打ちをしながら、ぬかるんだ地に座り足を組んだ。
あの日、自分のものにできればこの想いを昇華できるかもしれないと考えて手を伸ばすと、八戒はあっけなく身を委ねてきた。
まるで大したことではないと、俺のことなど何とも感じていないのだと言われているようで、それ以上求めることが出来なかった。
俺はあれをどうしたいのだろう。
暴きたいのか、壊したいのか。
癒したいのか?
自分のことすら持て余す輩に、何ができるというのか。
もしこの場所で俺が先にあいつを見つけていたら、何か変わったのだろうか。
血だまりに横たわる白い顔を思い描きながら、ゆっくりと目を閉じた。