over the rain




3.






気づくと悟浄は出かけていた。
煙草買ってくるわ。
そんな声が聞こえた気がしたが、目の前のシミを落とすのに夢中になって生返事を返した気がする。
僕は風呂の床に這ったまま、流れ落ちる汗を拭った。

ここ数日、自分の足元がぐらぐら揺れているような妙な感覚が続いている。
まるで他人の体を借りているみたいに、思っていることと言葉にすること、やっていることがバラバラだ。
雨が降りだした昨日からは更にひどくなった。
冷たい雨はやむ気配がなくて、僕はそれにのまれまいと必死だった。
雨が降るといつも僕は、姉と、姉を救うためという名目で犯した罪をなぞって、一人遊びのように不毛な後悔のループを辿ってしまう。
共に暮らす悟浄のために細々とした家事をこなすことで辛うじて日常生活を送っている状態だ。
自分が堕ちないために彼を利用していることを、悟浄も知っているのだろう。
こんな日は必要以上に関わってこないし、どちらかというと普段よりそっけない程だ。
こんな時に優しくされたら僕は彼に甘え頼って、後で必ず死ぬほど後悔するのが解っているのだろう。
本当に優しい人なんだと思う。

でもあの日から、僕の頭の中を占めているのは“三蔵”だった。
“好みじゃねえ奴に触れたりしない”
まるで好きだと告げるような言葉と、口づけと。
思い返すと胸が苦しくて恐ろしいくせに、体が熱くなった。
自分に向けられる思いがあるなんて、僕は今まで考えたことがなかった。
あの神に選ばれた人が、僕を?
それは悪い冗談としか思えなかった。
僕にとって、特別な人であるのは確かだ。
絶望でいっぱいだった時、あの人の言葉があったから、あの人が経を読んでくれたから。
僕は生きることを受け入れられたのだ。
三蔵のためにできることは何でもするつもりだ。
彼の身を脅かす者がいれば、命をかけて守りたいと思う。
あのきれいな人のために命を使う。
もしかしたらそれが今、僕が生きている意味なのかもしれない。

あの日三蔵の求めに応じたのも、そんな思いの延長だった。
あの人を守って死ぬのも、一時の気まぐれに付き合うのも、この身が役に立つのなら同じだと思う。
ただしそれは、想いがなければ、だ。
僕が何より恐ろしいのは、感情をコントロールできなくなることだ。
誰かを大切だと、愛しいと思えば、僕は必ず執着する。
失わないために、また過ちを犯すかもしれない。
だから誰とも深い絆を結ぶことがないよう、きつく自分を戒めて生きていくつもりだった。
大丈夫。
元来僕は人に無関心な冷たい人間だ。
こんな僕が深い関係を築けるのは、血を分けた姉くらいのものだろう。
だから心配はない、そう思っていたのに、あの人の言葉一つにこんなに動揺している。
答えはいらない。
別れ際にあの人はそう言った。
多分、あの行為に大した意味はない、ということだろう。
そうであってほしい。
もし意味のある言葉だとしたら、僕は…どうしたらいいんだろう?




長い掃除を切り上げて居間に戻ると、悟浄が帰ってきた。
傘をさしても濡れてしまう程、雨脚が強いのだろう。
髪や肩にまで水滴がついている。
左手には卵のパックが入った袋を下げていた。
口には出さなくとも、悟浄がここ数日の情けない様の僕を心配していたことは知っている。
僕は何度も彼の優しさに救われてきた。

「おかえりなさい」
タオルを差し出すと、いきなり腕を掴まれて強く引き寄せられた。
「悟浄?」
「坊主となんかあった?」
見て見ぬふりをしてくれる人がストレートに聞いてきた。
しかもひどく近い距離で。
「何も…ありませんよ」
壁に押し付けられたまま、耳元で囁かれた言葉に身を竦めた。
握られた腕を振り払おうとするが、なぜか力が入らない。
胸を合わせるほどに詰められて、悟浄の濡れた髪が頬に触れた。
いつもは見惚れてしまうほどきれいだと思うその色に、責められているように感じてしまう。

「この間寺から戻った時、お前からあいつのニオイがしてたけど」
「何を言ってるんですか?」
いつものようにうまく笑顔が作れない。
「煙草のにおいでしょう。そんなこと言ったら、あなたの煙草のにおいだっ…!」
いきなり首筋に口づけられて息をのんだ。
痛みを感じるほど強く吸われ、次に宥めるようにゆっくりと舌を這わされる。
思いがけない刺激に足が震えた。
崩れ落ちそうになった腰を取られ、抱き寄せられる。
「寝ちゃったんだ?三蔵サマ、がんばったねえ」
「ちがいます!」
「じゃ、無理矢理?…って、あいつはそういうタマじゃねえよな」
僕の中の劣情を煽るように、悟浄の手が体のあちらこちらを這っていく。
「やめ…」
片手で僕の両手首を掴んだ力はさほど強いものではないのに、僕は本気で抵抗できなかった。
あの人に僕を自由にする権利があるように、この人にもあるはずだ。
それにこんなことはただの戯れで、本気であるはずがない。
実際、悟浄の態度は余裕に溢れていた。
経験豊富なこの人にとって、これも変わった遊び程度のものなんだろう。

シャツに指がかかり、片手で器用にボタンが外されていく。
その時、ふと三蔵の指を思い出した。
数日前に僕に触れた、温かな指先を。
「!」
いけない。このままじゃ――

「だめです、悟浄!」
悟浄の手を振り払い、突き飛ばした掌から思いがけないほどの気が出た。
最近覚えたばかりで、まだ加減がわからない妙な力を正面から受けて、悟浄は椅子をなぎ倒して背中から床に転がった。
「痛ってぇ…」
「す、すみません!」
駆け寄って踞ったままの背中に手を伸ばすと、悟浄の肩が小刻みに揺れている。
思わず顔をのぞきこむと、悟浄は笑っていた。
呆気にとられた僕の顔を見ると、堪えきれないというふうに爆笑する。
「なんですか!一体!」
「悪い、悪い。冗談だって」
悟浄は身を起こしてウインクして見せた。
痛むのだろう、肩から腕を擦りながら、倒れた勢いで散らばった煙草を指差した。
集めて手渡すと、そのまま手を握られ引き寄せられる。
「悟浄…」
僕を腕の中に囲いこんだまま、悟浄は器用に煙草に火をつけた。
少し躊躇ってから、僕はゆっくりと身を預けた。
温かな腕に包まれて、安堵すると同時に力が抜ける。
思わずもれたため息に、悟浄は小さく笑った。
「あいつのこと、どう思ってんの?」
「…わかりません」
「これが答えなんじゃねえの?」
倒れた椅子と落ちた袋を指差すと悟浄は肩をすくめた。
せっかく買ってくれた卵は全て割れてしまった。
「あいつはよくて、俺はダメなの?」
笑いを含んだ拗ねた声で囁く。
「あの人とあなたは違います」
「あったりめえだ。あんな奴と一緒なんて死ぬほどイヤだわ」
冗談めかした言葉の後、真面目な声で続けた。
「でも一つだけ、同じモンがある」
「え?」
「あんな奴と同じなのは腹が立つけど、多分考えてることは似たようなことだ」
僕を見る瞳がいつになく真剣で、僕は一瞬言葉につまった。
「…何ですか?」
「お前が思っているより、ずっとお前を大切に思ってるってこと」
「…」
「あいつも俺も、お前を助けた理由は同じだと思うぜ。じゃなきゃ、あの物臭な野郎が、お前に名前なんてつけるわけねえだろ」
「そんなふうに思われる資格、僕には…」
「それは俺らが決めるコトだ」
笑って煙を吐き出すと、悟浄は抱き締めていた腕をほどいた。

「堅物の三蔵サマ的には精一杯なんじゃねえの?そこまでお前を動揺させるなんて」
「わかったようなことを…」
悔しいけれど僕なんかより悟浄の方が、あの人のことを理解しているのかもしれない。
「当たり前だろ」
得意気に悟浄は笑った。

悟浄は立ち上がると、首を回したり腕を回してから伸びをした。
怪我はない様子にホッとしながら、僕は倒れた椅子に手をかけた。
よく見ると脚が一本折れていて、修理が必要そうだった。

悟浄はのんびりと煙を吐き出しながら、何気ないふうにつぶやいた。
「そういえばさっき帰ってくる時、あの場所にあいつがいたぜ」
「あいつ?」
「眉間に皺寄せたクソぼ…」
最後まで聞かずに家を飛び出した僕を、笑う声が聞こえる。

本当なんだろうか。
あの場所といえば、あそこしかない。
こんな雨の中。
一体なんで?

降りしきる雨の中、僕はぬかるむ道を駆け出した。










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