甘雨
2.
「痛っ」
突然八戒が声を上げた。林檎を剥いていたナイフが指に触れたらしい。
その拍子に茶器が床におちて、香のよい茶葉が散らばった。
「どうした?」
三蔵は咄嗟にかけよって、八戒の腕を捉えた。
「大丈夫です、ちょっと切ってしまって…え?」
三蔵はためらいなく八戒の指を口に含んだ。
幼いころ指を切った時、師匠がしてくれたように。
「だ、大丈夫ですから、三蔵!」
奪うように指を引いた八戒は首筋まで赤くなっている。
さっきから百面相のように赤くなったり青くなったりしていると思ったら、思い立ったように立ち上がり、帰ると言い出すのかと思えば林檎を切りましょうと言い出して。
全く面白いやつだ。
三蔵が思いを告げたのは数日前のことだった。
八戒は何を言われたのかわからないといった様子でぼんやりと三蔵の顔を見つめると、一気に顔を真っ赤に染めた。
それから小さく何か呟くやいなや、風のように走り去ってしまったのだ。
三蔵は一人残された執務室で、じわじわと湧き上る羞恥心に天を仰いだ。
あのとき、八戒は何と言ったのだろう。
“僕も、です”と聞こえた気がしたのは、都合がよすぎる願望だろか。
慌てて散らばった茶葉を拾い集める八戒を眺めながら、三蔵は考えた。
やわらかい声で名を呼ばれ、他愛のない話をいつまでも聞いていたい。心ごと吸い込まれそうで、まともに見つめることなどできない碧の瞳を、自分だけに向けておきたい。
なんて勝手でガキくさい言い分だと思いながらも、あの時、胸にこみ上げた思いを言葉にせずにいられなかった。
恋とか愛とかよくわからないが、好ましいと思う気持ちに嘘はない。だから“好きだ”と伝えた。
だがそれは甘えだったのかもしれない。
八戒が殊更あのことに触れないのも、自分の言葉が甘えから出たものだと気づいているからなのだろうか。
ぼんやりと考え込みながら煙草を取り出した三蔵は、屈みこんでいる八戒の白いシャツの襟元に見え隠れする首筋に刻まれた赤い痕に目を止めた。
次の瞬間、身体の奥から湧き上った衝動に動きが止まる。
「河童か?」
「え?」
「その痕は、あの野郎か?」
八戒は目を丸くして首筋を押さえた。
「あ…これは今朝、悟浄がふざけて…」
「くそ、あいつ、殺してやる!」
「まあ…キス程度でしたから」
「キス程度だと?」
思わず八戒の腕をつかみ、引き寄せた。
「三蔵?」
「許せねえ。俺の…」
三蔵は言葉を止めて八戒を見つめた。
俺の、何だろう。
声を聞きたいとか、俺を見てほしいとか、そんなもんじゃ足りねえ。
誰にも触れさせたくない。
傍に置いていつでも触れて確かめ、抱きしめたい。
そしていつも、笑っていてほしい。
三蔵は思わず舌打ちした。
握った手に力がこもり、八戒が目を見開く。
認めるしかねえ。俺はこの男を自分だけのものにしたいのだ。
師を亡くした日から、何も持たないと決めていた。
何にも頼らぬようにと、常に強い意志で心も武装してきたつもりだった。
だが気づかぬうちに胸の内に忍び込んでいたこの気持ちを、無いものにすることはできない。
ただ好ましいというだけじゃない。 俺はこの男に、恋をしている。
だがこの男は…どうなのだろう?
先日の言葉で俺の気持ちを知らぬはずはない。
だが多少ぼんやりしてはいるが、今日もいつもと変わらぬ様子で穏やかに悟空に勉強を教えていた。
しかも俺の知らぬところで、河童なんぞにベタベタ触らせているなんて。
無防備すぎる。
「あの、三蔵」
「なんだ?」
「先日の言葉は…どういう意味なんでしょうか?その、」
と言いながら、三蔵が火をつけずに手にしたままの煙草を指さす。
「その煙草のように好いてくれているということですか?」
三蔵は至極真面目な顔で問いかける男を見つめた。
からかっているわけでも、拗ねているわけでもないようだ。
ただ純粋に、どういう意味だと聞いているのだ。
勘弁してくれ。俺はお前を―-。
三蔵は手にした煙草を投げ捨てると、八戒を強く引き寄せ抱きしめた。
潤んだ碧が驚きに瞠られる。
ああ、きれいな瞳だ。
三蔵は誘われるように口づけた。
「こういう意味だ」
腕の中でかたくなっていた八戒は、力を抜いて安堵したように笑った。
「よかった…あなたも」
どうやらあの時の言葉は、聞き違いではなかったらしい。
三蔵は腕の中の温もりを抱き締めながら考えた。
愛おしいとは、こんな気持ちをいうのか。