甘雨





1.



それは突然の雨だった。
悟空の家庭教師を終え、そろそろ帰ろうと思ったところに降ってきた雨は、春先の雨らしく柔らかなカーテンのように静かに天から落ちてくる。
通り雨だろうから止むまで休んでいけと言われ、八戒は三蔵の言葉に甘えることにした。
お茶をいれましょうかと尋ねると、三蔵は机に向かいペンを走らせながら頷いた。かなり仕事が立て込んでいる様子だ。
いつの間にか茶道具のしまい場所も好みの濃さもわかっている自分を胸のうちで笑いながら、八戒は慣れた手つきで準備をした。
少し疲れているようだから熱めのお茶がいいだろう。この様子では、すぐに手をつけてくれないかもしれない。この人の好きな羊羹でもあればよかったのだけれど。
やがて殺風景な執務室に、やさしい茶の香が広がった。
「どうぞ」
そっと机の端に湯呑みを置くと、自分の分を手にソファの隅に腰を下ろした。
三蔵は「ああ」と言ったきり書類に目を落としたままだ。
勉強から解放された悟空はどこかへ遊びに行ってしまった。決して居心地のいいわけじゃないこの寺にも、お気に入りの場所があるのだという。
雨は静かに降り続いている。雨雲が通り過ぎるまで、あとどのくらいかかるだろう。
三蔵の言葉に甘えて雨が止むのを待つことにしたけれど、やはり帰ればよかったかもしれない。
八戒は書類を睨み付けている三蔵の横顔にそっと目をやって、小さなため息をついた。

“お前が好きだ”と言われたのは数日前のことだった。
その時の自分の行動を思い出して、八戒は深くうなだれた。
一言“僕もです”と返すのが精一杯で、いきなり走って部屋を飛び出してしまったのだ。
子供じゃあるまいし、僕はいったい何をしていたんだろう。

この数日どんな顔をして会えばいいのかと思い悩んでいたが、いざ顔を合わせると三蔵はいたって普段どおりで、まるで何事もなかったような態度だ。
八戒はホッとした反面、寂しいような複雑な気持ちがしていた。

この手のことに関する悟浄の触覚、いや嗅覚は、感心するほど鋭かった。
あの日帰宅した八戒の顔を見るなり、何もかもお見通しといった顔でニヤリと笑うと、あれこれ質問を浴びせかけてきたのだ。
最初は知らぬふりで切りぬけようと思ったが、いつの間にか告白されたと白状させられていた。
“次はアレだな。まあ男同士いろいろ大変って聞くけど、がんばれよ”
などと肩を叩いて励ます同居人に、八戒はムキになって言い返した。
“変なこと言わないでください。僕たち、そんなんじゃ、ありませんから!”

そうだ。別に好きと言われたからって、それはどんな“好き”かはわからない。
この人は、“好き”と言っただけだ。
おそらくは誰彼かまわず好意を抱くような人ではないから、好いてもらえるということは特別なことなんだろうけど。
好きだという気持ちと恋愛感情は別物だ。
そもそも、この潔癖で頑なそうな人が、誰かに恋愛感情を抱くなんて想像がつかない。
ましてそれが、僕だなんて。
あの言葉はただ単に好意を表す言葉だったのかもしれない。いや、きっとそうだ。煙草やマヨネーズが好き、みたいな。
余計な期待をしても苦しいだけだ。
この人のために何かできる、たとえばこんな風にお茶をいれるだけでも、充分だと思わなければ。

でも、ただの好きじゃなくて万が一特別な思いを持ってもらえたとしたら。
僕が密かに胸の奥に抱き続けているような想いを、この人にも抱いてもらえているとしたら。
こんなに嬉しいことはない。
もしあれが、ストレートな愛の告白だったとしたら…僕の方から何かアクションを起こしたほうがいいんだろうか。
例えば、リードするとか?と考えて、八戒は頬を染めた。
だってどうしたらいいかわからない。
抱き合ってキスをして、その先は…。
ああ、ダメだ!彼女とそんな関係になったことはあるけれど、男性なんてもちろん初めてだし。
こういう場合、やはり役割があるのだろうけれど、それをどう決めるのだろう。
ぼくがこの人を組み敷いて、女性に対するように振る舞うことなんて考えられない。
このきれいな人が快感や苦痛に乱れる様は想像できない。
見てみたい気はするけれど。
いや、正直に言えば、ものすごく見たいけれど。
仮にも最高僧と言われる人に、そんなことできるはずがない。
では僕が。
僕がその役割を果たすことができるんだろうか?
この人に抱かれる自分の姿もまた、全く想像できない。いったい男性同士で、どうやったらことに及べるんだろう。
そこまで考えて、先走ってあれこれ悩んでいる自分が無性に恥ずかしくなって、八戒はソファで小さくなりながら両手で顔を覆った。
こんなことを考えるのは、悟浄のせいだ。

“だーかーらー、ンな堅苦しく考えるなって”
今朝の同居人の言葉を思い出して、八戒は唇を噛んだ。
“あいつだって男なんだし、やることはやってるだろ?いや、まじチェリーかもしんねえけど。でも知識ぐらいあるだろうよ。
抱き合ってキスしたら、あとはその場の勢いでどうにでもなるって。なんなら、今から練習しとく?”
腕を掴まれたと思ったら腰を抱かれ、あっという間に悟浄の腕の中にいた。
抗議のために開いた唇に熱い唇が寄せられて、するりと舌が入り込む。
緩急をつけて口内を舐め回す熱い舌に翻弄されて息がつけない。
息苦しさに身を捩ると、長い腕はあっさりと外れた。
“なにするんですかっ!”
“本番に備えてな。ま、俺のほうが断然うまいと思うけど”
そんなこと言ったってよくわからない。
こんな濃厚なキスは、彼女とだってしたことがなかった。
“せっかくだから、もっと先まで練習しとくか?”
ぐいと引き寄せられて、首筋を這い始めた唇に、八戒は慌てて悟浄の腕を振りほどいた。
“いい加減にして下さい!”
“いつでも付き合うからな”
へらりと笑いながら軽い調子で返されて、頭に血が上った。
“余計なお世話です!”
耳まで真っ赤になった八戒が思わず勢いで放った気功をくらった悟浄は、玄関のドアもろとも外へ吹っ飛んでしまった。


そうだった。帰ったらドアを修理しなければ。
この雨が、部屋の中まで吹き込んでいなければいいけれど。

朝からしでかした自分の所業を思い出した八戒は少し冷静になった。
やはり早く帰ってドアを直そう。
そう心を決めて立ち上がった時、三蔵が湯呑みを手に自分を見ていることに気がついた。
やっと自分を見てくれた嬉しさに、このまま帰るのが惜しくなる。
ふと、棚の上の籠の中に盛られた赤い果物が目に止まった。
八戒はにっこり笑って指を差した。
「林檎を切りましょうか?」


 




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(2016.3.8)



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