ラムネ4




4





開け放たれたままの玄関を入ると、狭い居間には誰もいなかった。
壊れた手錠がソファの足元に転がっている。

「何やってるんだ、俺」

引き千切られ歪んでいるそれを拾い上げながら、思わず小さくつぶやいた。
慌てて出ていったんだろう。
八戒の姿がないことに、ほっとしながら、寂しさも感じていた。
あんなことをされて、あいつがココに残っているはずもないのに。

三蔵に八戒を託したらそのまま消えるつもりだったのに、気づけばここに戻っていた。
拘束を外せたか、薬のせいで具合が悪くなってないか、気になっていたせいだろうか。
いや、ただもう一度、あいつに会いたかっただけかもしれない。

しどけなく下半身を乱した八戒が、呆然と俺を見上げた顔を思い出した。
やっぱ、あんな顔もきれいなんだな。
あいつを汚せば同じ場所に立てるような気がしてたけど、結局八戒はきれいなままだった。
自分とは違いすぎることを思い知っただけだ。

あの出会いの夜以来あいつが笑顔の下に眠らせたままの狂気を、俺はもう一度見たいと思っていた。
だがここで暮らした数ヵ月の間、それは一度も現れなかった。
もちろん八戒にとっては、その方がいいに決まっている。
逝ってしまった女と殺めた多くの命を悼みながらこの先の年月を穏やかに過ごしていくことが、
あいつの望みなんだろうから。
もしかしたらあの闇は、八戒の中から消えてしまったのかもしれない。
いや、そもそもあれは、俺の願望が見せた幻だったのかもしれない。

とにかく、俺たちの不毛な共同生活は終わった。
これでもう八戒に会うことはない。
傷つけることも――


微かな気配に振り返ると、戸口に八戒が立っていた。
「どこへ行くつもりですか」
ゆらりと一歩踏み出したその力なく下がった右手に、何か光るものを握っている。
「八戒」
それが果物ナイフとわかった時には、瞬く間に距離を詰められ足を払われていた。
床に転がった俺は強く打った背中の痛みも忘れて、
腹の上に馬乗りになった八戒の顔を馬鹿みたいに見上げていた。

「僕を残して、勝手にどこへ行こうというんです?」
状況にそぐわない冷静な声で見下ろす碧の瞳には、熾火のような暗い光が浮かんでいる。
「あなたのせいですよ」
八戒は上着の中から俺が三蔵に預けた袋を取り出して、翳して見せた。
「あなたが僕に食べさせたから、僕はこれがないと生きていけなくなってしまいました」
「はっか…」
「責任取ってください」
八戒はいきなり袋を破り、俺の頭の上からラムネをばら撒いた。
色とりどりの包みが、顔や髪に降り注ぐ
八戒は一つ拾うと、俺の目の前に赤いセロハンを翳した。
「でもこれが好きなのは、本当はあなたでしょう?」
ゆっくりとセロハンを剥きながらきれいに笑う瞳には、いつもと全く違う色が浮かんでいた。
それはずっと見たかった、情念に満ちた光。
あの雨の夜に浮かんで消えたものと同じだった。
「この菓子のように、溶けて消えてしまいたいと思っているんでしょう?」

そうか。
そうなのかもしれない。
お前の手にかかって消えてしまいたいと、ずっと思っていたのかもしれない。
死んだようなこの長い時間から、解放してほしいと。
なんて身勝手で残酷な願いだ。

八戒はにこりと笑うと、おもむろに右手を翳した。
刃先が小さく光る。
「あなたがそう望むなら、僕は何でもしますよ。例えば―」
空いた手で俺の髪を一房掬うと、指にくるくけると巻き付けナイフをあてた。
「髪が伸びたら、いつでも切ってあげますし」
歌うように八戒は続けた。
「髪だけじゃない、貴方が望むなら、 此処も―」
そういいながら心臓のあたりに指を滑らせナイフをあてる。
俺の目を覗き込みながら、ガキに言い聞かせるみたいにゆっくりと告げた。
「だから安心して、ここにいてください」

ああ、そうだな。
こんなお前を残して一人逃げるなんて、できるはずがねえ。
「コレは、また今度な」
そっと腕をつかむと、八戒はゆっくりとナイフを下ろした。

「一つ教えて下さい」
「ああ」
「あなたは…三蔵が好きなんですか?」

何かに憑かれたような今までの態度が嘘のように、八戒は震える声で尋ねた。
今日のこいつは凶暴で支離滅裂で情緒不安定。
でもなぜだかめちゃくちゃ…かわいい。

「ああ、そうだな…坊主もサルも、お前も、きれいだから」
「僕を一番にしてください!」
怒ったように言い放つと、八戒は俺の首にしがみついた。
そんなの当たり前だと返す間もなく口づけられる。
食われるみたいな、ひどく荒いキス。
驚く俺の舌を絡めとりながら、 その指は頬から肩、胸、腹と辿っていく。
まるで俺がしたみたいに。
いつの間にか、ナイフは部屋の隅に投げ捨てられていた。


ちょ、ちょっと待て。
やべえ、こいつ…やけに上手い。
前言撤回、かわいくねえ!

煩いくらいに胸が高鳴り余裕がない自分が信じられない。
焦らすような触り方に思わず揺れた腰を膝で押さえながら、八戒は獰猛に笑う。
それからまた、ひどく濃厚なキスをして。
あとは記憶にないほど夢中になった。
身体中に感じる熱と痛みに翻弄されて、でもそれ以上の穏やかさに包まれながら、
俺は白い菓子のように溶けていった。













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(2016.1.27)



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