ラムネ4
3
三蔵は八戒が来る日は機嫌がいいよな、と悟空に言われたことがある。
確かに今朝はいつになく目覚めがよく、朝の勤めも滞りなく済ませ、代わり映えしない朝飯も悪くはない味だった。
まあ、あいつの作るものには遠く及ばないが。
もうすぐあの碧の瞳が俺を見て微笑むと思うと落ち着かない気分だったが、腹の底が暖かくなるような心地もした。
確かに俺は機嫌がよかったんだろう。
赤い髪の男が現れるまでは。
「アイツ、返すわ」
開け放ったドアからふらりと入ってくると、悟浄は執務机の前にやってきた。
文句の一つもぶつけてやろうと思ったが、いつになく真剣な表情に調子が狂う。
「突然、何だ?」
「しばらく消えるから、アイツを頼む」
また揉め事でも起こしやがったか。
「八戒は了承しているんだろうな」
悟浄は目を逸らし、わざとらしく煙草の煙を吐き出した。
「あ、そうだ。これアイツに渡してやって。いつものやつだから安心しろって」
悟浄は鞄から透明な袋を取り出して机に置いた。
中には色鮮やかなセロハンに包まれたラムネがぎっしり詰まっている。
ラムネ――
そうだ、あの白い壺。
八戒はあの時、何かに心を奪われたような瞳で、ラムネを入れると言っていた。
一体何をしている?
こいつらの間に秘密めいたものがあることは、少し前から感じていた。
時折見かけた、怯えと陶酔の混ざったような八戒の表情。
その視線の先は、いつもこいつだった。
「お前、あいつに何をしている?」
「気になる?」
悟浄は自嘲気に笑いながら、肩をすくめた。
「アイツは、俺なんかがどうこうできる相手じゃねえわ」
「どういう意味だ?」
「きれいな奴は、何をしてもきれいなんだよな」
見たことがない柔らかい顔で、目を細め続ける。
「アイツの傍にいるのは、やっぱお前のほうがいいだろ」
ふざけるな!何を勝手なことを。
あいつが言い訳じみた理由を口にしてまで、てめえの傍を選んだ理由を考えたことがないのか。
「そろそろ行くわ」
「おい!」
「じゃあな」
やけに静かな瞳で笑うと、悟浄は踵を返し部屋を出ていった。
置いていった鞄を確かめると、八戒が用意したらしい悟空の弁当が入っている。
わざわざ持ってきたのか。身勝手なくせに、変なところで律儀な奴だ。
煙草を吸うことさえ忘れていたことに気がついて、灰皿を引き寄せた。
あの悟浄の表情は何だ?
自棄になってるわけじゃねえ。
ただ、まるで全てを諦めたみたいな凪いだ瞳は、らしくなくて気色が悪い。
出会った時から気に食わない奴だったが、あんな瞳は全く似合わねえ。
まるで死期を悟った獣みたいな―。
思わず舌打ちをして、窓の外に目をやった。
明るい陽射しに照らされた庭で、数羽の雀が餌を探している.
やけにのんびりとした景色を睨みながら考えた。
生きることに怖気づいていた八戒を、ここまで前向きにさせたのは悟浄の存在が大きいのだろう。
二人の間でどんな行為や想いがあろうが、別に構わないと思っていた。
ガキじゃあるまいし、自ら選んだ生き方をどうこうできるもんでもない。
恐らく、傷つけあうようなことがあったのだろう。
悟浄が八戒を手放すということは、不穏な日々が終わったということか。
しかも一方的に。
ならばそろそろ…
その時、乱暴にドアが叩かれ、八戒が飛び込んできた。
蒼ざめた頬で激しく息を切らしながら、部屋の中を見回す。
「悟浄なら帰ったぞ」
「あの人…なんて…」
「そいつを置いていった」
机の上のラムネを目にすると、八戒は走り寄って両手で包みを掴んだ。
その手は微かに震え、手首には血が滲んでいる。
「あの人はどこに行ったんですか?」
「しばらく旅に出るそうだ」
八戒は強張った顔で俺を見た。
怒りの色を浮かべた瞳を向けられて、思わず息をのむ。
「…あの人をふったんですか?」
「は?」
「あなたに告白したでしょう?受け入れなかったんですか?」
「一体なんの話だ?」
「あの人は貴方が好きなんですよ。マガイモノを求めるくらい、あなたのことが―」
何を言ってるんだ?
こいつら、てんで見当違いだ。
「気色悪いこと言うな!あいつは、お前をここに返すと言いにきただけだ」
俺の言葉に、八戒はピタリと動きを止めた。
「なぜ、ですか?」
ひどく傷ついた顔で俺を見る。
「なぜ、僕を遠ざけるんですか?」
果たしてその言葉が正しいのか、わからなかった。
ただアイツが八戒を大切に思いながら裏腹な行動を取ってしまう気持ちは、なんとなく理解できた。
こいつには、そういう感情をかき立てる何かがある。
「お前を傷つけるのに、耐えられなかったんだろう」
八戒は呆然と俺を見つめた。
考えもしなかったといった顔だった。
「何だ、そうだったんだ…ははっ」
八戒はどこかおかしくなったように笑いだした。
苦しそうに身をよじりながら笑い続ける。
「おいっ」
突然、ピタリと笑い止むと、じっと俺に視線をあてた。
それから見たことがない程、艶やかな笑顔を見せた。
狂気に似た光を浮かべた瞳に、俺は言葉を失った。
「僕は何も傷ついていません。むしろ傷ついているのは、あの人です」
いっそう微笑みを深めて、続ける。
「あの人は、いただきますね」
その時わかった。
きっとあいつは“この男”に魅入られたんだと。
俺の前では一度も見せたことがなかった狂気に囚われたこいつを、きっと悟浄は目にしたんだろう。
恐らく雨の中でこいつを拾ったという時に。
背負った罪の重さに耐えながら前に進もうとする儚げな男ではなく、闇を抱いたまま足掻き続ける男を、悟浄は求めている。
いや、囚われていると言うべきか。
悟浄の愚かさと同時に、俺は自分の愚かさも思い知った。
俺も恐らくこの瞬間に囚われた。
そして同時に失った。
なぜならこいつは、悟浄しか見てねえ。
鮮やかな笑いを残して、八戒は帰っていった。
深いため息を吐きながら、俺は煙草に火をつけた。
これで、やっと落ち着いて煙草が吸える。
今日は厄日だったか。
この先あの二人がどうなるかなんて、知りたくもねえ。
互いに囚われているくせに、すれ違ってるなんて笑わせる。
想いあっているなんて、わざわざ教えてやるものか。
入れ違いにやってきた悟空は八戒に会えなかったことを残念がったが、今日ばかりは会わないで正解だ。
あんな奴に魅入られるなんて、ガキには荷が重かろう。
重箱を開けて歓声を上げる悟空を眺めながら、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
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(2016.1.13)