天さんのこと
3
人間の適応能力はすごいと思う。厳密にいうと僕は人間ではないけれど。
僕は天さんとの生活にすぐに慣れた。
悪戯好きな天さんは、いろいろやってくれた。
昼を過ぎても起きてこない悟浄に業を煮やして布団を引っぺがすと一緒にベッドの中で寝ていたり、妙な胸騒ぎがして風呂場を覗いたら、一緒に風呂に浸かっていたこともあった。
そのたびに僕は心臓が止まりそうになるほど驚いて、おまけに腹がたつやら悲しいやらで、自分がいかに悟浄に惹かれているのかを思い知らされた。
無防備に好きにさせている悟浄にも腹が立つけれど、見えていないのだから仕方がない。
元凶である天さんを捕まえようにも実態がないから触れることができないし、いつでも悪気なく微笑んで見せるので、僕の腹立ちは長続きしないのだ。
全く困った居候だった。
近ごろでは今日は何をするのかと身構えながらも、半ば楽しむような気持ちになってきた。
何しろ天さんは密着しているだけで、悟浄に手だしはできないのだ。
その気になれば僕の方が随分と有利なはずなのだけれど、僕だって何もできないのだから結局同じことなのだった。
天さんは活字中毒のようで、僕が本や新聞を読んでいるとよく僕の肩のあたりに身を寄せて一緒に覗き込んできた。
ものすごく熱中する性質のようで真剣に読んでいるかと思うと、突拍子もない感想やつっこみを口にするので、僕はよく吹き出してしまい悟浄に怪訝な顔をされた。
何もない空間に向かって一人で喋っている僕を心配するので、悟浄がいる時はなるべく天さんの振る舞いに反応しないように気をつけた。
悟浄が賭場に出かけると、僕らはよく話をした。
昼間一緒に読んだ本の感想を述べあったり、読みかけのミステリーの犯人当てをしたり。
天さんはとても博識で時々思いもかけない方向に話が飛ぶことがあったけれど、彼と過ごす時間はとても楽しかった。
何より長い夜を独りで過ごすことがなくなって、僕は随分救われていた。
いろいろと取り返しのつかない過去の出来事を思い返してはため息をつくことが多かった夜が、彼のおかげで穏やかで心和むものになっていた。
その夜も賭場に出かけた悟浄を見送って夕飯の片づけを終えてから、僕らはワインを飲みながら語り合っていた。
と言っても飲んでいるのは僕だけで、天さんはひたすら煙草をふかしていただけだけれど。
天さんは幽霊なのに喫煙を吸った。
いつもどこからか煙草とライターを取り出して、美味そうに一服していた。
その煙はなぜか仄かな桜の匂いがするのだった。
「今日の夕ご飯、美味しそうでしたね」
そういえば我が家にきてから、天さんは一度も食事をとっていない。
幽霊だから必要ないのだと言っていたけれど、食べることで得られる満足感は、肉体的なものだけじゃないはずだ。
何も食べることができない生活は、随分味気無いものだろうなと同情してしまう。
「今日はビーフシチューなんですよ。悟浄が好きなので、冬になるとよく作るんです」
そう言いながら、僕は残っているシチューを皿によそい、天さんの前にスプーンと一緒に置いた。
「うわ、美味しそう!八戒はお料理上手ですね」
天さんはふわりと上昇して一回転した。
気分が高揚するとなぜか浮かび上がって回転したくなるのだそうだ。
「必要に迫られて作っているだけです。あの人、全然料理しないですから」
「え、そうなんですか?ぼくの“あの人”は料理も上手でしたよ。彼もよくシチューを作ってくれました」
「優しい人なんですね」
「生まれ変わっているうちに、料理の仕方忘れちゃったんですね」
天さんはちょっと寂しそうに笑った。
「天井まで積み上がった本で溢れそうな僕の部屋を片付けてくれたり、何日も風呂に入らない僕を見かねて風呂場に引きずって行って洗ってくれたり。“あの人”、シャンプーの腕前もなかなかのものでした。あんまり気持ちよくてよく眠ってしまいました」
あははは、と天さんは無邪気に笑った。
「ちょっと待って下さい。お二人の関係って?」
「ただの上司と部下ですよ」
「随分面倒見のいい上司だったんですね」
「僕が上司です」
「え?あ、そうなんですか?」
なんだか随分懐の深い人みたいだ。いや、ただの世話好きとか?
「今の話だと、お二人は恋人どうしのように聞こえますけど?」
天さんはじっと僕を見つめると、寂しそうな声で呟いた。
「だったらよかったんですけどねえ…あの人は誰にでも優しい人でしたから」
なんだか悟浄みたいな人だと思ったら、急に天さんが気の毒になった。
「こんなに長い間待っているのに…“あの人”はなんで現れないんでしょう」
天さんは遠い目をしながら、煙を吐き出した。
ふわりと桜の匂いが立ち昇る。
「長い間って、そういえば天さんはどのくらい昔の人なんですか?」
「500年ですよ」
「500年!あなた、そんな昔の人なんですか?」
天さんは誇らしげな顔でにっこり笑った。
「僕らは軍人でした。よき相棒で戦友でライバルで。僕にとってはかけがえのない人だったんです。多分、彼もそう思っていたと思います」
ふわふわと頼りないこの人が軍人だなんてちょっと信じられないけれど、黒い軍服を纏い血に塗れて戦う天さんの姿は、きっと息をのむほどに美しかったことだろうと考えた。
「僕は彼に対して、同僚以上の想いを抱いていました。触れて、抱きしめて、愛していると伝えたかった。でもどうしても素直になれなくて…。結局思いを伝える前に戦が起こり、僕らは死んでしまいました。心残りのあった僕はいつかあの人に巡り合う日がくると信じて、この世を彷徨い続けているんです」
そんなに長い間、いつ逢えるともわからない人を探してこの世を彷徨っていたなんて。
どんなに寂しくて不安だっただろう。
この人の抱える想いは本当に深いんだなと考えていると、いきなり天さんが身をのりだしてきた。
「僕のことより、あなたですよ、八戒!」
「はい?」
「僕と違ってあなたには肉体があるんですから。行動しない手はないでしょう?」
「行動って…何をするんですか?」
「決まっているでしょう。告白ですよ、コクハク!」
一語一語力強く区切ると、天さんは楽しそうに笑った。
「バ、バカなこと言わないで下さい!そんなこと、できるわけないでしょう!」
「僕みたいになってからじゃ遅いのに」
天さんがポツリと呟く。
そんなこと言ったって、男の、しかも犯罪者の僕にどうしろというのか。
あの人は根っからの女好きで、挨拶代わりにナンパするような男だ。
時折女性と連れ立って歩く姿を街で見掛けることがあるけれど、いつも違う女性が隣りにいる。
こんな僕の思いを告げられたって、迷惑なだけだろう。
そう伝えると天さんは「そうでしょうか?」と優しい瞳で笑うのだった。