天さんのこと
2
家の裏手に広がる林に向かって、幽霊はふわふわと飛んでいった。
長い髪をなびかせながら楽しげに飛んでいる姿をよく見ると、風をはらんでひらひらしている白い服は白衣のようだった。
女医か?女医の幽霊なのか?
時々後を追う僕を振り返って、にこにこと笑っている。
幽霊は古い大きな桜の木までくると、浮遊するのを止めて僕を待っていた。
よくよく見れば、幽霊は男性だった。はっとするほどきれいな顔立ちだけれど、骨格や筋肉の付き方が女性のものと違っている。
名前は、天さん、というらしい。
本名かどうか知らないが、「僕の名前は天蓬です」と礼儀正しく名乗った。
思わず聞き惚れてしまうようなきれいな声だった。
「あの紅い髪の人と話をしたいのだけれど、全く気付いてもらえないのです」
天さんは困ったように眉尻を下げながら訴えた。
「あの人に何の用ですか?何か恨みでも?」
まさか悟浄が振った昔の男とか。そんな素振りは全く感じなかったけれど、悟浄は実は両刀だとか。
それなら僕にも希望があるかもしれない。
「あの紅い髪の人は、僕の愛した人の生まれ変わりなんです。“あの人”と同じ魂の匂いに惹かれて飛んでいたら、この家にきてしまったというわけでして」
僕の淡い希望を打ち砕きながら、天さんはニコニコと答えた。
「あの紅い人は全く僕のことが見えないようですね。あなた、僕みたいに漂っている男を見ませんでしたか?」
「いいえ、見ていませんけど」
「そうですか…」
しょんぼりと肩を落として溜め息をついた後、天さんはおずおずと上目遣いに僕を見た。
「え、と…しばらくあなたたちの家に居候させていただけませんか。そのうち“あの人”もやってくると思うんです」
なんて勝手な言い分、と思ったけれど、まるで捨てられた子犬のような瞳で見つめられると、落ち着かない気持ちになって思わず目を逸らしてしまう。
黙っていれば見惚れてしまうほどきれいな人なのに、情けない表情やへらりと笑う顔になんともいえない愛嬌があって憎めないのだ。
悟浄が誰かの生まれ変わりだという言葉も気になった。
幽霊とはいってもたいしたことはできないようだし、いざとなったら三蔵に祓ってもらえるだろうし。
「少しの間ならいいですよ」
「ありがとうございます、八戒!」
「何で僕の名前を?」
「さっき紅い髪の彼が呼んでいたでしょう?彼、素敵ですよね」
天さんはうっとりと目を細めた。
「ご、悟浄にヘンなことしないでくださいねっ!」
「彼“ごじょう”っていうんですか。ヘンなことってどんなことです?」
「え?」
「あなた、ごじょうのことが好きなんですか?」
「ち、違いますよ、なんで僕があんな女たらしのことなんか!」
「やっぱり彼もですか!僕の“あの人”も女たらしっていうか、人たらしでしたよ。女性だけじゃなくて、部下も上司も子供も動物も、なぜかみんな“あの人”に惹かれてしまうんです」
天さんは頭をかきながら、少し照れくさそうに笑った。
何で僕は幽霊の惚気話を聞いているんだろう。負けじと僕も主張する。
「悟浄だって相当のもんですよ。この間だって一緒に飲みに行ったら、店にいる女性全員に声をかけているんですよ。しかも必ず褒めるんです」
「マメですね〜。そういえば以前“あの人”が…」
いつの間にか僕と天さんは座り込んで、旧知の仲のように互いの好きな人のことを語りあっていた。
見境なくフェロモンをまき散らす人に惚れるとお互い苦労するな、なんて妙な連帯感を抱き始めた頃に、紅い髪を風に揺らしながら悟浄がやってきた。
「こんなトコにいたのか」
悟浄は積もった落ち葉の上に座り込んだ僕を見て、安心したような笑みを浮かべた。
いきなり飛び出した僕を心配して、探しにきてくれたらしい。
「何かあった?どっか具合悪いとか?」
「いいえ。最近ちょっと運動不足だったから、ジョギングでもしようかと思いまして」
悟浄は呆れたように笑って、僕(と天さん)に手を差し伸べた。
「座り込むほど走ったのか?凝り性だからな、お前」
悟浄は天さんには気が付かないようで、僕の手を握るとひょいと引き上げてくれた。
僅かの間触れただけの掌の暖かさに馬鹿みたいに僕の胸が高鳴っているなんて、悟浄は思いもしないだろう。
ふと目を落とすと、天さんが次は自分の番とばかりに腕を差し出したまま、また子犬のような目をして悟浄を見上げていた。
悟浄はもちろん天さんには気が付かないで、半分以上葉の落ちた桜の枝を見上げて、秋だねえなんて呟いて煙を吐き出している。
本当に見えないんですね。いや、見えている僕が普通じゃないのだろうけれど。
全く気付いてもらえないのは寂しいだろうなと、僕は天さんが気の毒になった。
そっと手を差し出すと、天さんはニコリと笑ってふわりと宙に舞い上がった。
「八戒は優しいですね」
耳元で囁くと、何も知らない悟浄の顔の前であかんべえをして見せる。
まるで子供のような振る舞いに思わず笑っていると、悟浄が怪訝そうな顔で振り向いた。
「どした?」
「何でもありません。もう大丈夫です」
僕たちは悟浄を間に挟んで家に戻った。
天さんはふわふわと浮きながら、覚えたばかりのお気に入りの言葉を繰り返す幼子のように、“ごじょう、ごじょう”と歌っていた。
案外かわいいところもあるんだな。
この人の待ち人が現れるまで、しばらく同居させてあげよう。
天さんの言うことが本当なら、なんだか気の毒な話だし。
なんて考えた僕は、人が良すぎたのかもしれない。
こうして、奇妙な同居生活が始まった。