we were
3.
悟浄の部屋の前に立つと、ノックをする前にドアが開いた。
いつもは少し軋みながら乱暴に開けたり閉じたりされるドアが、僕を待ち構えていたように音もなく滑らかに開き、悟浄が咥え煙草で立っている。
「来ちゃいました」
「やっぱり」
「なんだか寝苦しくて」
「入ったら?」
僕を迎え入れる悟浄は至極自然な顔をしているけれど、なんだかとても嬉しそうに見える。
時計の針は明け方近くを指していて、あと少ししたら空が白み始めるだろう。
こんな時間まで眠れないのは久しぶりだった。
昼間掃除のために入ることはあるけれど、こうやってこんな時間にここに入るのもだから久しぶりだ。
壁一枚挟んだ隣の部屋だというのに。
悟浄は窓を大きく開けて、たちこめていた煙を逃がした。
暗闇から微かに秋の虫の声が聞こえてくる。
悟浄はゆっくりと外に向かって煙を吐き出してから灰皿に煙草を押し付けて、窓際に置いてあるペットボトルの水を飲んだ。
僕は煙草の匂いの染みついたベッドに腰掛けて、僕より少し高い背丈と少し広い肩をぼんやりと眺めた。
「すみません。こんな時間に」
「気にすんな。いつもなら今ごろ帰ってくる時間だし」
初めてこの部屋を訪れたのは、もう一年も前のことだ。
確か、悟浄が昔馴染のチンピラにダマされて、あっけなく命を捨てようとした数日後。
あの雨の夜から、僕の人生は変わってしまった。
薄暗い地下室に助けに行った時、死ぬかもしれないというのに、この人は諦めたように笑っていた。
僕はあの時、悟浄の抱く深い悲しみと絶望を知ってしまった。
そしてこの人もあっけなく逝ってしまう人なのだと、痛いほど分かった。
誰彼なく向けられる悟浄の情の深さの根源には、普段微塵も感じさせない深い傷がある。
でもそれは、血に塗れたこの手が触れていいものではなかった。
僕は何もできない。ただ、この人の傍で笑うことしか。
せめてこの人を、ここに繋ぎとめるものになれたら――。
そんなことを考えて眠れない夜が続いたある夜。
ふらふらと部屋のドアを叩いた僕を、悟浄は何も聞かずに迎え入れてくれた。
一緒にベッドに寝転んで、温かい掌で僕の背を撫で抱きしめてくれた。
もちろん、性的な意味など欠片も感じられない、ただただ温かな腕で。
悟浄のにおいに包まれてその穏やかな鼓動を聞いているだけで、僕はあっけなく眠りに落ちた。
それからも眠れない夜には、何度かこの部屋を訪れた。
なぜか悟浄の傍だとよく眠れるのだ。
それこそ、夢も見ないで死んだように。
公園でビールを飲んで家に帰ると、悟浄は手早く電子レンジでカレーを作った。
そのあとは花火をしてまるで子供みたいに笑い合って、そのまま胸の中の憂いを忘れたふりをして眠れると思ったのに。
一人になると昼間の三蔵の言葉を思い返して、眠ることなどできなかった。
あの人と別れてから何度もあの言葉の真意を考えてみたけれど、どうしても言葉通りの意味にしか捉えられなかった。
不思議なことに三蔵と抱き合うたびに熱に浮かされた僕の頭に浮かぶのは、いつも自分の犯した罪の記憶ばかりだった。
何がそうさせるのかわからない。
単にあの人が僕をこの世に繋ぎとめた人だという、思い込みのせいかもしれない。
あの人に触れられるたびに、流れてゆく時間を言い訳にして、忘れることで辛い記憶から逃れようとしている自分に気づかされた。
熱と痛みを受け入れながら、僕は忌まわしい記憶を手繰り寄せ、この身の内に潜む狂気を思い出した。
そしてこんな僕が、また誰かを愛することの罪深さを。
決して忘れてはいけないことがある。
僕が悟浄を思うように、僕が手をかけた人たちにもたくさんの想う人がいて、誰かから想われる人だったかもしれないということを。
三蔵に触れられている限り、僕はいつまでも罪人でいられた。
決して喜ばしいことではないのに、僕はどこかで安堵していた。
いつでも三蔵が、僕を繋ぎとめてくれているようで。
僕のあさましい思いや魂胆に、あの人は気づいていたのだろう。
求められて始まった関係とはいえ、僕はあの人の優しさに甘えてばかりだった。
見放されて当然だ。
悟浄は就寝前の一本を吸いながら、いたずらを思いついたような顔でニヤリと笑った。
「明日、俺とお前でナンパに行こうぜ」
笑うととたんに人懐っこくなる、僕の大好きな笑顔で続ける。
「女はいいぜ。柔らかいし、いい匂いがするし。おまえのねえちゃんみたいな女はそうそういねえかもしんねえけど、あんな坊主よりずっといいって」
「何言ってるんですか、僕なんか相手にされませんよ」
「俺が秘訣を教えてやるからさ」
「そんなこと言って、あなたの成功率ってどのくらいなんです?」
「まあ3割…いや、2割くれえかな?」
「案外低いんですね。その秘訣はあまり効果がないのでは?」
くすりと笑ってしまった僕を横目で睨むと、悟浄は僕の肩に長い腕を回してそのままベッドに倒れこんだ。
「マジで心配してんのに。オマエ黙ってたらいい男なんだから勿体ねえって」
ずいぶん失礼な言いぐさだ。
「ずっと黙っているわけにいかないでしょう」
ずっと過去を隠して生きていくことも。
白熱灯に照らされて暗い光を宿しながら、僕を見て溶けるように笑う赤い瞳。
その瞼にキスしたいと思いながら、僕は緩やかな眠気を感じ始めて目を閉じた。
僕の想いに悟浄が応えることはないとわかっている。
この関係を進めたら、僕がどこまでも求め続けて歯止めが効かなくなることも、何より僕自身がそれを一番恐れていることも、多分悟浄は知っている。
それでも望めば、こうやって受けとめ抱きしめてくれる。
この人が抱く情は深すぎて、時にひどく残酷だ。
三蔵にも悟浄にも甘え縋りつくように過ごす日々が、いつまでも許されるはずがない。
もう少ししたら、この家を出よう。
この人にも三蔵にも、それから悟空にも、たやすく会えない遠い場所に行こう。
それまであともう少しだけ、傍にいさせてください。
「オヤスミ」
穏やかな深い声と温かな腕に包まれながら、僕はあっという間に眠りに落ちた。
翌朝、一本の電話で、僕のささやかな計画は根底から覆った。
ぶっきらぼうに、でも深い想いを込めた声で、三蔵は西への旅の話を告げた。
“僕らも、ですか?”
“三仏神からの命だが最後はお前ら次第だ。易くは戻ってこれねえ。よく考えろ”
“あの、三蔵…、僕は…”
“あの場所では「終い」と言っただけだ。俺は他人の期待に応える気は一切ねえが、何を期待しようが、それはてめえの勝手だ”
“え…”
悟浄といえば、話しを聞くなり
「西でナンパだぜ、八戒」
と浮かれた調子で少ない荷物をかばんに詰め始めている。
「そんなにすぐには出発しませんよ。まずはこの家を片づけて、それから色々な準備があるんですからね。それに危険な旅なんですよ。浮かれていたら命に係わるんですから。わかっているんですか?悟浄!」
諌める僕に、悟浄は笑いを返した。
「旅の間に、じっくり秘訣を教えてやっから」
僕はまだ、この人たちの傍にいていいのだと思うと目頭が熱くなった。
「すぐにあなたの腕を追い抜いて見せますよ」
精一杯の強がりで笑ってみせた僕を、悟浄は温かい腕で抱きしめた。