セロハン

             



17





「ちょっとジェラシー…」
光明先生と三蔵との話を終えて廊下に出ると、悟浄が耳元に囁いた。
さっきの三蔵とのことを言っているのだろうか。
驚いてその顔を見れば、悟浄は冗談めかした笑顔で片目をつぶって見せた。
思わず空いている方の手で悟浄の腕を引き寄せた。
片手に持っている花束が無かったら、抱きしめているところだった。
僕はもう、あなただけのものですよ、と伝えようとしたけれど、気恥ずかしくて言葉にならない。
「わかってるって。」
悟浄は優しい瞳で笑うと繋いだ掌に力をこめた。

力がなくなったのは嘘じゃない。
全く消えてしまったわけじゃなくて、まだ少しぼんやりと感じるものはあるけれど。
もしかしたら先生は気づいていたのかもしれないけれど、何も言わずに僕のわがままを許してくれた。
この力は人を惑わせる。きっとこのまま消えていくのを待っている方がいいんだ。


夕べ僕たちは本当に久しぶりに、同じベッドで夜を過ごした。
悟浄の健やかな寝息を傍で聞きながら、改めて考えた。
僕はなぜ記憶を失っていたのだろう。
もしかしたら花喃が、罰を与えていたのかもしれないとも考えた。
彼女を選ばなかった僕と、彼女を一人にした悟浄に。
でも今はそうは思わない。
彼女を死なせて一番辛い時間を記憶を無くして過ごした僕は、今、こうやって彼女のいない世界を受け入れている。
胸に寂しさや悲しみはあるけれど、この痛みはきっとこの先ずっと抱き続けていくものなんだろう。
この5年間は彼女からの贈り物だったのかもしれない。
悟浄には辛い思いをさせてしまったけれど、あのまま彼女のいない世界が続いていたら、僕はもう悟浄を受け入れることができなかっただろうから。


僕たちは納骨堂に足を向けた。
こうやって花喃に会いにくるのは久しぶりで、申し訳ない思いでいっぱいだった。
月に数回は悟浄が、彼女の好きだった花や菓子を携えてここを訪れていたことを、さっき三蔵が教えてくれた。
僕が忘れていた間も、悟浄がちゃんと彼女を愛してくれていた。
それなのに、へんな思いこみで意地をはっていた自分が恥ずかしかった。

納骨堂の中は以前訪れた時よりずいぶんと暖かかった。
よく晴れた陽射しが天窓から差し込んで、細く開けた窓から柔らかな風が入ってくる。

「花喃、今日は八戒も一緒だぜ。」
悟浄が優しく呼びかけながら壺を取り出した。
彼女が好きだった百合とカーネーションをとりまぜた花束を花瓶に活けていると、突然悟浄がよろよろと床に座り込んだ。
「マジかよ…花喃…」
茫然と骨壺を見つめて呟く。
「どうしました?悟浄?」
思わず駆け寄ると、悟浄は泣きそうな瞳で僕を見て首を横に振った。
「もしかして…消えちまったのか?あの執念の塊みたいな女が?」
「落ち着いてください。花喃がどうしたんですか?」
そっと背中をさすると、悟浄はまじまじと僕の顔を見つめた。
「こんな話、信じられねえかもしれないけど――」
それから悟浄は、不思議な話を聞かせてくれた。
今までここを訪れる度に、煩いほどに花喃の声が聞こえていたのだと。
いつでも僕を心配し、悟浄を叱りつけ、励まし、まるで生きていたときのように会話を交わしていたのだと。
それなのに、今日は彼女の声が全く聞こえないのだと。
そういえば一昨日の夜も、悟浄は光明先生にそんな話をしていた。
そんな不思議なことがあるんだろうかと思った時、少し前から僕も彼女の声を聞いていたことを思い出した。
一体どういうことなんだろう…。
突然縋るような目で悟浄が僕の手を握った。
「あいつは…許してくれたんだろうか?」
その時、この人が抱えていた苦しみの大きさが痛いほど胸に迫ってきて、思わず肩を抱きしめた。
僕が記憶を無くしている間、悟浄は恐ろしいほどいつも同じ優しさで接してくれていた。
変わってしまった僕を躊躇いなく受け入れてくれたから、僕は安心してこの5年間を生きてこられた。
いつも大きな愛情で僕を見守っていたその裏で、深すぎる哀しみと罪悪感にずっと一人で耐えていたんだろう。
現実から逃げた僕を、責めることも見捨てることもできたのに。

「花喃は大丈夫ですよ。きっと僕が頼りなくて成仏できなかったんでしょう。」
こうやって記憶も戻って、安心したのかもしれない。満足したのかもしれない。
悟浄と二人でゆっくりと立ち上がり、白い壺を手に取った。
記憶の中よりずっと軽いそれをそっと撫でると、胸の奥に温かな思いが沸き起こる。
今でも僕ら二人の中に彼女は生きていると、確かに感じた。
「何も言わねえで消えちまうなんて、薄情なやつ…知ってたけどな。」
悟浄は寂しそうに笑った。
何となく彼女の気持ちがわかる気がする。
寂しいことが苦手な人だったから。いつも笑っているか、怒っているか。そんな人だったから。

「二人がずっとデートしていたなんて、僕もちょっと妬いちゃいますよ。」
少し拗ねたふりをすれば、悟浄は照れくさそうに笑って僕の肩を抱いた。
「これからは一緒に来ようぜ。」
「ええ。」
いつかまた、彼女は僕にも声を聴かせてくれるだろうか。


納骨堂の扉を開けて外に出ると、庭の小さな池の傍らに三蔵と光明先生が立っていた。
季節外れに穏やかな日差しの下で二人ともきれいな金の髪をなびかせて、僕らを見て笑っている。
いつも厳しい顔をしていた三蔵の瞳が思いがけず優しくて、光明先生に似ていることに気が付いた。
血縁なんて関係ないところで、二人は深く繋がっている。
この先何があっても、きっと三蔵は先生の思いを受け継いで生きていけるだろう。
さっき彼に触れた時に、弟のように懐いているあの少年の笑顔がぼんやりと見えた。
まるで太陽の様に暖かでやさしい笑顔だった。

「おお、やっぱ親子だねえ。」
学生の頃のような屈託のない表情で、悟浄が僕を見て笑った。
そうだ、こんな風に笑うことのできる人だった。
その時、わかった。
悟浄の未来が見えなかったのは、きっと僕自身の未来と深く係わっているからだ。
だって僕たちは―。

「悟浄、帰ったらラムネを食べましょう。」
今度は僕が食べさせてあげますから。
この先何度でも、あなたと、僕と、彼女が共にいることを確かめるために。

今でも花喃を愛している。
そして悟浄のことも、これからもずっと。
これまでも、これからも、僕たちは一緒に生きていける。











(葉村/2013.11.22)

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