セロハン
16
「御心配をおかけしました。」
深々と頭を下げる八戒の隣で、悟浄が相変わらずいけすかない顔で笑っている。
池袋の事件の翌日、二人は雁首そろえて寺にやってきた。
あの女が好きだった真っ白い花束と高級洋菓子店の包。それから親父の好きな金天堂の和菓子を抱えて。
「身体の方は、もういいのか?」
「はい。」
「怪我はしませんでしたか?貴方たちはすぐ無茶をするんですから。」
「先生が警察の方にお話ししてくださいましたから。本当にありがとうございました。」
にこにこと微笑みあう親父と八戒をよそに、俺は悟浄のすっとぼけた面を睨みつけた。
昨日の八戒の様子から記憶が戻ったんじゃねえかと思ったが、二人とも何も言わねえってことは俺の勘違いだったんだろうか。
二人はいつになく穏やかな顔をしていた。
まるで胸の奥のつかえがとれたような、柔らかい表情をしている。
特に悟浄の野郎が。
現場に駆け付けた刑事の話だと、あの男がどういういきさつでエスカレーターに細工なんてしていたのかはまだわからないらしい。大方愉快犯だろうということだが。
八戒の言った通り、犯人は数日前に襲ってきた男だった。八戒に執着していた理由は何なのか。5年前の事件と関係あるのか。
疑問はたくさん残っていたが、あのエリート官僚様の恋人とやらがいずれ締め上げてくれることだろう。
「実は、先生にお詫びをしなければいけないことがあるのです。」
八戒は突然神妙な顔で親父を見つめた。
「どうしました?」
「どうやら、あの力が消えてしまったようでして。」
「え」
思わず声を上げた俺に、八戒が苦笑いを見せた。
「おや、どうしたんですか?」
「今朝起きてみたら妙に身体が軽い気がして。多分無くなったのだと思うのですが、悟浄では確かめようがなくて…三蔵さん、ちょっといいですか?」
座布団から下りた八戒は、すっとにじり寄ってきて両手で俺の右手を握り首を傾げた。
「ああ、やっぱり」
「やっぱり、じゃねえ!」
慌てて引こうとすると、逆に強く引き寄せられて動きが止まる。
八戒は素早く俺の首に腕を回すと狼狽える俺の背にぴったり張り付いて、肩のあたりに頭を預けてきやがった。
「やっぱり…何にも見えません。」
親父を見上げて悲しげな声を出す。
「隣のお部屋を貸していただけたら、もっと詳しく確かめられるのですが…」
凍りついたように動けねえ俺を見て、悟浄がニヤニヤ笑っている。
「わかりました、もうそれくらいにしてやってください。この子ったら心臓が止まりそうな顔をしていますよ。」
笑いをこらえるように親父が言うと、八戒はあっさりと腕を放した。
冗談じゃねえ、こっちはもっとすごいモン見せられてるんだ。こんなことで心臓が止まるか。
「もうあのお仕事ができなくなってしまいました。申し訳ありません。」
「いいのですよ。もともとあの力は一時的に授かった、奇跡のようなものだったのでしょう。」
「でも、お客様が…」
「大丈夫です。心配いりません。」
穏やかに笑いながらもきっぱりと返した親父に、八戒はもう一度深く頭を下げた。
「というわけで、三蔵さん、今までありがとうございました。」
あのイカガワシイ仕事から解放されたということか。
ホッとすると同時に、実は少し惜しい気もしていた。こんなこと、口が裂けても言えねえが。
「いい加減にその呼び方はやめろよ。」
「はい?」
「“さん”付けはやめろといっているんだ。どうにも気色悪い。」
目を瞠った八戒は、いたずらな表情で微笑んだ。
「じゃあ…三蔵!」
八戒は昨日までと変わらないほわんとした笑顔で右手をさし出した。
そうだ。
記憶が戻ろうが戻るまいが、こいつは確かに八戒だ。
5年間俺たちが見守ってきた、強さと優しさを秘めた少々変わった男。
以前の切羽詰まった瞳のこいつより目の前の男の方がずっといいということに、俺はやっと気が付いた。
よく考えりゃこいつの記憶が戻ったからって、5年前のこいつに戻るわけじゃねえんだ。
こいつは今でも十分おもしろい奴だし、大切な…友達だ。
目の前の男の存在を、今初めて認めることができた気がする。
さし出された掌を強く握り返せば、碧の瞳は嬉しそうに輝いた。