セロハン

             




15





コンロの上の鍋をかき回しながら、俺は壁にかかった時計を見上げた。
さっきから何度目になるかわからない。
やけにうるさい胸の音に苦笑しながら、今か今かと待っている。まるで新妻にでもなった気分だ。
鍋の中にはアイツの好きなカレーが用意してある。
もちろんメシも炊いたし、ちょっとしたサラダも作った。万事抜かりなしだ。
実はまともに作れる料理なんてコレしかねえんだけど、気が向いた時に作ってやると八戒はいつでも美味しいですと嬉しそうに笑ってくれる。
時計の針は9時に近い時間を指していた。
すぐに戻るなんて言ってたけど、警察でややこしいやり取りになったに違いない。
今から帰すと三蔵から連絡があったのは小一時間程前のことだった。

あの時。
エスカレーターの下から聞こえた八戒の叫び声に、一気に5年前の記憶が蘇った。
一瞬パニックになったけど、身体は自然に動いていた。
どんな偶然なのか、エスカレーターの上から雪崩のように倒れてくる奴らに押されて落ちてきたのは、高校生くらいの女の子だった。
あの日花喃の名前を叫び腕を伸ばした時と同じ必死さで、落ちていく彼女の掌を掴んだ八戒。
気づけば俺も駆け寄って、あの日と同じようにあいつの身体を支えていた。
どうか落ちないでくれ、と願いながら。
あの日は救えなかったけど、今日は一つの命を救うことができた。
それは俺にとって、思いがけない程大きな救いになっていた。
参ったな。
思い出すと涙が滲んできて、慌てて目を拭う。
あれだけの人間が乗っていたエスカレーターが急停止して怪我人だけで済んだんだから、幸いだったんだろう。

犯人を取り押さえた刑事たちに促されて警察に向かった八戒の顔は、昨日までとは別人のようだった。
柔らかい笑顔を浮かべていたけれど、その瞳の強さは5年前までのあいつのものだった。
短い言葉しか交わせなかったから確かめられなかったけど、もしかしたら記憶が戻ったのかもしれない。
あの時、確か“三蔵”って言ってたし。
“三蔵さん”なんて笑っちまうような殊勝な呼び名を5年も口にし続けていたのに。
あいつにとって記憶が戻ることが幸いなのか、今でもわからない。
花喃を失ったこと、そしてあの骨の顛末を思い出した時、あいつはどう思うんだろう。
俺のしたことを、許してくれるんだろうか。

表で小さな音がしたと思ったら、突然玄関のドアが開いた。
「悟浄!」
思わず駆け寄った俺の顔を見るなり、八戒は抱きついてきた。
互いにきつく抱きしめあって名前を呼ぶ。
「よかった…お前が…」
「あなたが…無事でよかった…」
上手く言葉にならなくて、腕の中の温もりをさらに強く抱きしめた。
しばらく言葉もないまま狭い玄関で抱き合った後に顔を見合わせた俺たちは、自然と唇を重ねていた。
懐かしい感触に、胸が締め付けられる。
物思いに沈む八戒を慰めるために、冷えた身体を温めるために。その背中を抱きしめることはあっても、怖くて触れることができなかった唇。
だけど一度禁を破れば、もう止めることができなくて。
俺は思いのたけを込めて何度も口づけた。
八戒は抵抗も抗議もしないで微笑みながら応えてくれる。
「記憶…戻ったの?」
キスの合間に尋ねれば、八戒は抱きしめる腕に力をこめた。
「どうなんでしょう…ところどころ、曖昧で。でも、こうやってあなたとキスするのが初めてじゃないことは思い出しました。」
ああ、どうでもいいよ。お前の記憶が戻ろうが、戻るまいが。
俺は今までも、これからも、お前のことが好きで、好きで。何があってもこの想いだけは変わらないと、ずっと前から決めているから。

「腹へったろ?カレー作ったけど。」
「ああ、あなたのカレー!昔から好きだったんですよ。」
八戒は嬉しそうに笑った。
「そうだ、悟浄。」
「なに?」
「後で一緒に食べましょうね。」
八戒は優しい瞳で、鞄の中から新品のラムネの袋を取り出した。










(葉村/2013.11.22)

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