スタート





4.


だが。
数日後、目覚めは突然にやってきた。


「もう来るな」
紫の瞳がまっすぐに八戒を見ていた。
「なぜですか?」
負けまいと見つめ返す八戒の視線にも、逸らされることのない強い光。
「わかってるんだろう?」
「わかりません」
本当はわかっていた。わかりたくないだけだ。
八戒は強く唇をかみ締めた。
「お前の気持ちには応えられねぇ」
もう何度目になるだろう。
あなたが好きだと告げた八戒に向かって、その日三蔵はきっぱりと応えを返した。
「お前を、俺の中の一番にはしてやれねぇ」
そんなことはわかっている。
三蔵にとって一番大切なのは、“三蔵”であることだと。
経文を探し出しその背に負う重い責務を果たすこと。そのために生きているのだと言っても過言ではないことも。
そしてその荷を負うきっかけとなった、それはそれは大切な人が、今でもその胸の中にいることも。
「二番目だって三番目だって構わない。あなたの傍にいられれば…」
いや、うそだ。
愛してしまえば、何をおいても欲しい。思っただけ返されたい。手放したくない、独占したい。
それが自分だということを、八戒はイヤというほど知っている。そしてそんな八戒の業の深さを、きっと三蔵もわかっている。
「あなたとの…絆が、ほしいのです」
消え入りそうな声で呟いて俯く八戒の髪に、ふ、と三蔵の指が触れた。
「そんなもん…もう、とっくにあるだろう」
らしくない優しい指の動きで八戒の髪を撫でながら、三蔵は穏やかな声で続けた。
「俺が人の作ったメシを美味いと思うのも、髪を触らせてもいいと思うのも、お前だけだ」
でもそれは、恋愛という形じゃない。
思い返せば三蔵は、その時徹底的に振ってくれようとしたのだろう。
だが八戒は惑った。それ以上三蔵の言葉を聞くことも顔を見ていることもできなくて、執務室を飛び出すと薄ら寒い廊下を走りぬけ寺院を後にした。
八戒は当て所なく長安の街をさ迷いながら、何度も三蔵の言葉を胸の中で繰り返した。
“そんなもん…もう、とっくにあるだろ”
絆があると言ってくれた三蔵の優しさに胸をうたれて、そして傷ついた。
どう転んでも自分に可能性はないのだと。これ以上のものを三蔵に求めてはいけないのだと。
だが頭ではわかっているのに、気持ちがついていかない。
八戒は唇を噛み締めた。




気がつくと、夕闇があたりに満ちていた。
肌寒い風が吹き抜けてゆくのに小さく震えながら見回すと、八戒は自分の住む街に立っていることに気がついた。どこをどう歩いたのか覚えていなかったが、知らぬ間に帰ってきていたのだ。
“帰る―”
いくら悲しみに心が乱れていても、自分の帰る場所はこの街の、あの家しかない。
紅い髪の同居人の元しか――
どんな時でもさりげなく見守ってくれているような悟浄の瞳を思い出すと、沈んだ気持ちが少しだけ温かいものに変わってゆく気がした。
無性に悟浄に会いたかった。この時間彼が家にいるかどうかはわからないけれど、とにかくあの家へ帰ろう。そう考えて八戒はゆっくりと歩き出した。
落ち着いてあたりを見回すと、八戒が立っていたのは最近小奇麗に整備された通りだった。
レンガで統一された敷石や整然と立ち並ぶ街灯に浮かび上がった白い壁。だが美しく並んだ店々が、沈んだ心を映すようにひどく色あせて見えてしまう。その中に見慣れない店を見つけて、八戒は足を止めた。
道に張り出すように席を設け、白い庇が黄色い灯りに柔らかく浮かび上がっているその店は、この街では見かけたことのない店だった。どうやら長安では何度か見たことがある、カフェのようだ。
いつの間にこんな店ができたのかと思いながら目をやると、路面に面したテラス席は楽しそうに語りあう恋人たちで埋まっている。
その様子を眺めながら、八戒は性懲りもなく考えた。
一度くらいあんなふうに、あの人と過ごしてみたかった。こんな目立つ華やかな店ではなくて、あの人が好みそうな小豆が美味いと評判の甘味処とか…。

未練がましく考えている自分にため息をつきながら、八戒がやわらかな照明に浮かびあがる店にもう一度目をやった時だった。
幸せそうなカップルが集う中に見慣れた紅い髪を見つけて、八戒は目を瞠った。
悟浄は奥の席に座り、一人の女性と話をしていた。女性の顔はよく見えなかったが、身に着けているものから悟浄好みの華やかな人であることはわかった。
くだけた様子で優しげに笑う悟浄の姿に、八戒は自分でも意外なほどの衝撃を受けた。
振られたとか、レンアイしようとか言っていたくせに、しっかり付き合っている女性がいるじゃないか。しかもお似合いだ。
八戒は急速に気分が降下するのを感じながら、そそくさと背を向けてその場を離れようとした。
その時。
「おい、はっかーい!」
こちらに気づいた悟浄が、大きく手を振って名を呼んだ。
背を向けていた女性も振り向いた。思った通り、はっきりした顔立ちの美人だった。
あぁ、こんな時に…。
反射的に出てしまう営業スマイルを恨めしいと思いながらも、八戒はひきつった笑顔で右手を上げた。
一刻も早く立ち去りたい心境だったが、おいでおいでと手を振りながらしつこく名前を呼ぶ悟浄に負けて、八戒は店に足を踏み入れた。

席に近づいて女性に向かって会釈をした八戒を自分の隣の席に座らせると、悟浄はにこにこと嬉しそうに笑いながら、八戒の肩に腕を回した。
「こいつ、さっき言ってた、俺のオモイビト」
「え?」「は?」
疑問の声を上げたのは、八戒も女性も同時だった。
「俺、こいつに惚れてんの。だからアンタとは付き合えねぇんだわ。ごめんな」
そういって、悟浄は八戒の肩をさらに抱き寄せた。
「え?…ええっ!」
訳がわからず悟浄の顔を見つめると、悟浄は思わず見惚れるような微笑みを返してきた。
心外なのに大きく胸が高鳴ってしまい、顔が一気に熱くなる。意に反して赤く染まってしまった頬に突き刺さるような女性の視線を感じながら、八戒は言葉を失った。
多分悟浄はこの女性と別れたいのだろう。好みでない人に言い寄られて困っているのかもしれない。
他ならぬ悟浄が困っているのなら協力したいのはやまやまだが…。何もこんな嘘をつかなくてもいいのに。しかもなんでこの僕を引き合いに出す?
八戒は肩を抱かれながら、話を合わせるべきか、違うんですと言い出すべきが迷っていた。

「そうなの?」
女性は濃いシャドウで彩った目で八戒を上から下まで睨みつけながら、眉を吊り上げ詰問した。
「え、あ、あの…」
思いもよらない展開に、八戒はめずらしく言いよどんでいた。隣の悟浄に助けを求めるように目をやると、悟浄はさも愛しげに目を細め髪に触れてくる。
「最っ低!」
女性は悟浄と八戒を等分に睨み付けながらいきなり立ち上がった。勢いでガタンと椅子が倒れ、店中の視線が集まる。
女性は机の上のグラスを手に取るとさっと悟浄の頭上に差し上げて、いきなり水をぶちまけた。
多くの客が固唾を呑んで見守る静まりかえった店内に、氷がテーブルの上に落ちるカラカラという音が響き渡る。
グラスの水は悟浄の髪をぬらし、昨夜八戒がアイロンをかけたシャツを濡らして滴り落ちていた。
呆然と見つめる八戒とは対照的に、当の悟浄は余裕しゃくしゃくといったふうに女性を見上げると、もう一度“すまねぇな”と笑った。
女性は今にも泣き出しそうな顔で悟浄を見つめると、それでもしっかり“ホモ野郎”の罵声を残してから、足音高く店を出て行った。
「ホモ野郎だと」
首筋に張り付いた髪をうっとうしそうにかきあげながら、悟浄はからからと笑った。
それは否定しないけれど、相手が違う。いや、自分の場合片思いなんだから、厳密に言えば相手はいないわけだけど。
思いもしない展開に、八戒は目の前の男を茫然と見つめた。
大きなグラスにいっぱいの水をかぶったせいで、悟浄の髪もシャツもびっしょり濡れている。自業自得とはいえあまりな悟浄の姿に、八戒はハンカチを差し出した。
その腕を、悟浄はしっかりと掴み引き寄せた。集まる視線をものともせず、真剣な面持ちで八戒の瞳を覗き込む。
「ってわけだからさ、俺とつき合ってくんねぇ?」
「な、なに言ってるんですか…」
思わず声が裏返る。みんなが見ている、こんな場所で。
「幸せにすっからさ」
「ば…ばかですかっ!」
八戒は思わず立ち上がって叫んでいた。再び椅子が倒れて、その音に弾かれたように八戒は店を飛び出した。


外へ出ると、八戒はまた走り出した。無性に腹が立ってたまらなかった。
何を言っているんだ、あの人は。あの女好きが、僕なんかを相手にするわけがない。からかっているのか?同情しているのか?なんで腹が立つだけじゃなくて、こんなに悲しいんだろう…。
息が切れて苦しくて、さすがにこれ以上走れないと思った頃に立ち止まったのは、家へと続く道だった。
八戒は肩を落として深いため息を一つつくと、しおしおと林の中を進んでいった。
今日はとんでもない日だ。一日にこんなに走り回ることがあるなんて。
もう、何がなんだか…。
そして自分が悟浄に拾われたという場所にさしかかった時だった。
「!」
暗闇の中にちらちらと揺れる蛍火を見つけて、八戒は息をのんだ。
ゆっくりと近づくと、悟浄が木にもたれて立っている。足元には、たくさんの吸殻が落ちていた。
多分店を出てからずっと待っていたのだろう。八戒が戻れる場所は、あの家しかないのだから。
二人は無言で見つめあった。
悟浄の顔に店でのふざけた表情は微塵もなく、何か文句を言ってやろうと思っていた八戒は、言葉が見つからずに唇をかんだ。
「悪かったな、突然」
「本当に…突然すぎますよ」
俯いた八戒に、悟浄は優しい視線を向けている。自分の靴の先を見つめながら、八戒は震える声で続けた。
「ずっと、あの人のことが好きだったんです」
「俺も…お前をここで拾った時から、ずっと好きだったよ」
あの夜酒場で見た、悟浄の瞳を思い出した。
自分が三蔵に想いを告げて応えをもらえぬ度に抱く諦めや失望と同じものを、この人も抱えていたのだとやっとわかった。
「振られても、思いが受け入れられなくても、あの人が好きなんです」
煙草の匂いの染み付いた掌が、ぽんぽんとあやすように八戒の頭をたたいた。
「わかってる。簡単に諦められるわけねぇよな。だって俺も、そうだし」
「…ばかですね」
「お互いな」
何度も優しく髪を撫でられて、八戒は目を閉じた。


残りわずかな家までの道を並んで歩きながら、八戒は肩を落とした。
「今日はたくさん走って、くたくたです」
「マラソンでもしたの?」
今日一日の行動を思い返して、八戒は苦笑いを浮かべた。感情に流されて、一体どれだけの距離を走ったことか。
「…まぁ、そんな所です」
でも、悪いことばかりではなかったのかもしれない。
八戒はそっと悟浄の右手を取った。あの雨の夜自分を拾い上げてくれた、暖かい掌を。
問うように向けられた紅に照れたように微笑むと、八戒はその存在を確かめるように繋いだ掌に力をこめた。
「また、マッサージしてくれますか?」
悟浄は驚いたように目を瞠ってからニッと笑った。
「いつでも、喜んで」







(2010.12.24)


←back / next→



←novel