スタート
3.
悟浄が連れて行ったのは八戒も何度か行ったことのある行き着けの酒場ではなく、裏通りをさらに一本入った所にあるこぢんまりとしたバーだった。
美味い料理を味わいながらワインを空けカクテルを数杯ずつ。二人とも存分に飲んで、いい気分になっていた。普段あまり酔いを感じない性質の八戒も、ふわふわと舞い上がるような感覚を味わっていた。
夕刻の事件のせいかアルコールのせいか、昼間は到底受け入れられないと感じていた鋭い胸の痛みは、いつの間にか鈍いものへと変わっている。それは隣で冗談を言って笑わせてくれる悟浄のおかげだった。こんな夜に一人きりで過ごしていたならば、ますます落ち込むだけだったろう。
悟浄は強面な外見に反して、八戒の些細な言動から内心の揺れを感じ取って気遣いをしてくれる。
それは今夜に限ったことではなかった。
ただ優しいとか見栄えがいいというだけではなく、懐の深さを感じさせるその温かな心根が、きっと女性を惹きつけてやまないのだろう。
「いいお店ですね」
「でしょ?ここに連れてくるのは、トクベツなやつだけよ」
悟浄はウオッカベースのカクテルを手にニッと笑った。
カウンターの中では初老のバーテンダーが静かにグラスを磨いている。絞った音で流れるジャズの音。きれいに磨かれたカウンター。そんな落ち着いた雰囲気にゆるりとした気分になりながら、八戒は間接照明を受けて鈍い色に映る悟浄の紅にそっと目をやった。
悟浄はどんな人とこの店にくるのだろう?
悟浄の仕事場でもある酒場で以前見かけたことのある女性達を思い描いてみた。
もしかしたらこの店は今日のデートコースだったのかもしれない。そう思うと、なぜか胸の奥がキシリと痛む。
そんな自分に八戒は小さく首をかしげた。少し酔ったのかもしれない。
「で、一体三蔵のどこがいいのよ?」
酔いを覚ますための煙草に火をつけながら、悟浄は興味津々といった表情で八戒の顔を覗き込んだ。
「どこがって、…全部ですよ」
愛想のない仏頂面も目付きの悪さも乱暴な物言いも、全て愛らしく思えると言ったら、きっと笑われるだろう。
「相手が男っつーハードルはないわけ?」
「自分がこの先女性とつき合うということが、ちょっと考えられないんですよね」
そんな言葉でごまかしながら、八戒は内心苦笑した。
ハードルはとっくに越えてしまっているのだ。想いがないという最悪の状態で。
考え込むように黙ってしまった八戒の様子に、悟浄は火をつけたばかりの煙草を灰皿に押し付けてから、パチンと指を鳴らした。
「じゃあさ、試しに俺と付き合ってみねぇ?」
「何言ってるんですか?今、一緒に飲んでるじゃないですか」
「そうじゃあなくて…」
悟浄は軽くウインクをして見せる。
「レンアイしよって言ってるの」
「またそんなコト言って…。僕はきれいなお姉さんじゃありませんよ」
笑いながら隣に目をやると、ひどく近くに紅い瞳があって八戒は目を瞠った。
「悟浄…」
宝石のような紅の中に思いもよらない真剣な光を見つけて、言葉につまる。向けられる悟浄の瞳に、一瞬暗い翳がよぎったような気がして胸を突かれた。
「なんつって…ウ・ソ♪第一、俺、触ったとき柔らかくないとイヤだし」
悟浄は二カッと笑うと、大きな手で八戒の髪をかき回した。
「悪かったですね。ゴツゴツしていて」
ふくれた顔で返しながら、八戒は力が抜けるような奇妙な安堵感と同時に、胸の中にまた小さな痛みを感じていた。一体この痛みは何なのか。笑いあいながらも、首をひねった。
それからは二人で飲み比べのようにグラスを重ね、いい具合に酔いが回った頃、少し怪しい足取りで店を出た。
住み慣れた家へ帰りついたのは、夜も更けた頃だった。
玄関のドアを開けた途端安心したように酔いが回りはじめた八戒を、悟浄は笑いながらベッドへと連れていった。
「お前でも、酔っ払うことあるのな」
笑いが止まらない悟浄も相当酔っている様子だったが、甲斐甲斐しく氷の入った水を汲んではベッドに腰を下ろした八戒の元へ運んでくる。
時折酔って帰ってきた悟浄を八戒が介抱してベッドまで連れていくことがあったが、今夜はすっかり立場が逆転している。そんな自分たちがおかしくて、八戒は笑いながら冷えたグラスを受け取った。
水を飲み干すとなんとか上着を脱いで、あとはパッタリとベッドに突っ伏してしまった八戒の背中に、ふわりと悟浄の掌が触れた。背骨を探るように指を動かした後で、肩甲骨の辺りを指圧し始める。
「お客さん、だいぶ凝ってますね」
笑いを含んだ悟浄の声を聞きながら、八戒はあまりの気持ちよさに目を閉じた。
「あぁ、あなた何でも上手いんですね。すごく気持ちいいですよ」
器用な指が絶妙の力加減で、肩から背中にかけての凝りを解してゆく。
「こういうの上手い男はモテるんだぜ。実はアッチの方のマッサージもばっちりなんだケド。試してみる?」
「…遠慮しておきます」
笑いながらのやり取りの中、ふと、店での“レンアイしよう”という言葉を思い出した。
冗談だと笑う直前に悟浄の瞳によぎったものは何だったのか。思い出そうとするが、酔いと睡魔に負けて上手く思考が結べない。
八戒は半ば眠りにおちながら、悟浄の指の刺激とそこから伝わる温かさに深い息を吐き出した。
たとえば悟浄がこのまま自分を抱こうとしたとしても、多分自分は拒まないだろう。
ひと時の慰めとしてこの身が必要だというならば、優しいこの人のためにこの身を任せても構わないと思う。
それは結局、思いのないまま結んでしまった三蔵との関係と同じものだけれど。
だが悟浄の指は優しく八戒の背を解すだけで、不埒な気配など微塵もみせない。
心も身体もゆっくりとほどけていく感覚に包まれながら、八戒はいつの間にか穏やかな眠りに落ちていた。