スタート





2.





「好きなんです」
目の前の紫が、困ったように揺れるのを見るのが好きだった。
「あなたの傍にいたいんです」
三蔵に会える機会はそう何度もあるわけではない。多くて月に一度。三蔵が旅に出てしまえば数ヶ月会えないこともあった。ましてや二人きりで会うことなど滅多になかったから、八戒は機会があるたびに物陰でそっと想いを伝えてきた。
いつも傲岸不遜、何があっても自分の信念を貫いて他人の思惑など歯牙にもかけない人が、困惑した表情で眉をひそめたり、小さくため息をついたり。時には何も聞こえなかったように素通りされたりして、まともに相手にしてくれることなど一度もなかったけれど。
それでも、三蔵が好きだった。

それはただ一度だけ。
悟能という名の罪人がこの世からいなくなり、八戒という男が生まれるまでのほんの僅かの間に、二人は結ばれた。
その時は互いに、特別の感情があったわけではなかった。
おそらく三蔵にとっては、雨に恐慌をきたした男を宥め、正気を保たせるための一手段で。罪人はただ精神を蝕むような雨の恐怖から逃れたくて、目の前にあった一本の藁にすがっただけだった。
それがこの世に代わるもののない、とんでもなく神聖な藁だったというだけのこと。
だが罪人にとってそのただ一度の交わりは、生き続けるための拠り所となった。後見人となったその人を慕い、役に立ち、想いを寄せることが生きる支えとなった。
気がつくと罪人は恋におちていた。






その日、八戒は久しぶりに長安へ出かけようとしていた。
三仏神の命で東の地方へ旅に出ていた三蔵が1ヶ月ぶりに戻ってきたと、昨日遊びにきた悟空が教えてくれたのだ。
すぐにでも飛んでいきたい気持ちを抑えて、八戒は昨夜から入念に仕込みをし、朝早くから腕によりをかけて弁当を作った。長旅で疲れているだろう三蔵に少しでも栄養のあるものを食べてもらい、旅の疲れを癒して欲しかった。
栄養のバランスを考えながら三蔵の好物を取り合わせて作った弁当は、我ながらなかなかの出来だった。育ち盛りの悟空のために、量も欠かせない。
五段の重箱に彩りよく詰め合わせた料理を眺めて、八戒は満足気に微笑んだ。
「おっ、今日は餌付け作戦ってか?食い物で釣れるのはサルだけなんじゃねえの?」
夜遅く帰宅してやっと起きだしてきた悟浄が、重箱に蓋をしている八戒を見て欠伸まじりに笑った。
三蔵を好きだという気持ちを告げたことはないのに、なぜか勘のいい同居人は自明のこととしているようだった。
「いいんですよ。あの人に会えるだけで」
自分の思いが受け入れられることはないのかもしれないけれど、それでも旅から戻ったと聞けば会いたいし、できたら自分の作った料理を食べてもらいたい。
迷惑でなければ―。
そう考えて、八戒は落ち込んだ。
今までに何度か自分の気持ちを伝えたが、三蔵が答えをくれたことはない。自分の気持ちは迷惑なのだろうとわかっていたが、八戒は諦めることができなかった。
だってあんなにきれいな人を、他に知らない。
闇を照らす月のような金の髪、気高い宝石のような紫暗の瞳。重い責務と過去を背負いながらも、一人昂然と進んでゆく強い心。
三蔵がいたからこそ、自分は闇の中から僅かでも抜け出せたのだと思っていた。彼に惹かれる気持ちを、止めることなどできるはずがない。
「悟浄も一緒に行きませんか?」
それでも一人で行くのは気が引けて、八戒は同居人に誘いの声をかけてみた。
「いやぁ、俺これからデートなのよん」
恋多き同居人はニヤリと笑うと、励ますように八戒の肩を叩いた。
「まぁ、がんばって、ネ」
八戒は苦笑いを浮かべながら頷くと、風呂敷で包んだ弁当を抱えた。
「あなたの分はテーブルの上にありますから、よかったら後で食べてくださいね」
それでもいそいそと出かける八戒を、悟浄が同じような苦笑いを浮かべながら見送っていたことを、八戒は知らなかった。





その日の夕方。
ひっそりと暮れていく夕闇の中、八戒は長安から住み慣れた街へと向かう道を、とぼとぼと歩いていた。
茜色を飲み込みかけた夜の空には、すでにたくさんの星が瞬いている。
冷気を帯びた夜の風が吹き抜けて、八戒は薄い肩を震わせて深いため息をついた。
久しぶりに会った三蔵は、旅に出る前と変わらずに元気そうだった。
悟空から八戒の訪問を聞いていたらしく、特に驚くこともなく迎え入れられ、持参した弁当を喜んでくれた。
昼時、三人は寺院の庭の片隅にある東屋で重箱を広げた。
悟空はにこにこと幸せそうな笑顔で、期待以上の食べっぷりを見せてくれた。爽やかな外の空気が食欲を誘ったのか、八戒の料理が口にあったのか、ふだんはあまり食べない三蔵も気持ちのいいくらい食べてくれた。
満足そうに食後の一服を楽しむ三蔵の姿を見ているだけで、八戒は胸が温かく幸せな気持ちになった。思い切って足を運んでよかったと心から思った。
その後、悟空が腹ごなしに遊びに行ってしまうと、めずらしいことに、三蔵が頼みがあると言い出した。
「髪を切ってほしいんだが」
「え…僕が、ですか?」
「ゾロゾロ伸びて、いい加減うぜぇ。適当に切ってくれ」
確かに三蔵の髪はしばらく散髪していないようで、全体に随分と長くなっている。
「僕でいいんですか?」
「あぁ、頼む」
自室から鋏とシーツをもってくると、三蔵は何の躊躇いもなく八戒にその髪をゆだねた。
八戒は急に上がった体温と大きな音を立てる胸の鼓動をなんとか静めて、慎重に鋏を入れていった。
しゃきしゃきと軽い音を立てながら、三蔵の金の髪が指先から零れ落ちてゆく。
「普段はどうしているんですか?こちらの方に切ってもらうのですか?」
三蔵の身の回りの世話をしたい者は、この寺に数多くいるに違いない。
「たまに床屋に行くこともあるが、だいたい自分で適当に切っているな」
他の奴に触られるのはどうも苦手で、と付け加えた。
その言葉に八戒の胸は大きく音を立てた。
それは、僕にならば構わないということだろうか…。
それだけ自分に心を許してくれている三蔵に対して、八戒の胸に熱い想いがこみ上げた。
「あの、三蔵―」
“あなたが、好きです”と言葉にしかけた時だった。

「あの人にも、時折髪を切ってもらった」
突然、三蔵がぽつりと呟いた。八戒は思いがけない言葉に息をのんだ。
三蔵の髪に触れることができる人など、そうそういないはず。
あの人って…?
「ガキの頃は髪を切られるのが嫌で、逃げ出してよくあの人を困らせたもんだ」
まぁ、大抵取っつかまって、力づくで切られたがな…。
そう続けた三蔵の瞳は柔らかい色を浮かべて、日差しを受けて輝く庭の池に向けられている。
それはまるで、愛しい人を懐かしむような横顔だった。
こんなに温かい瞳で思い返してもらえる人がいるなんて。
八戒は鋏を手にしたまま、凍りついたように動けなくなった。
そんな様子を、切り終えたのだと思ったのだろう。三蔵は立ち上がると、軽く髪を手でかき回して満足そうに笑った。
「俺を育ててくれた先代の話だ。お前はどことなく、あの人に似ている」
身体を覆っていたシーツをバサリと取り払うと、三蔵は“ありがとう、助かった”と言って八戒の手にしていた鋏を受け取った。
「いえ…僕でよかったら…いつでも」
そう応えるのが精一杯で、八戒は散らかした髪を掃いてしまいたいからと言い訳をして、執務室へ戻る三蔵を見送った。




思い返すだけで、胸が痛くてたまらなかった。
おそらく迷惑であろう告白を三蔵が冷たく断らないのは、多分僕がその人に似ているからなのだろう。
三蔵の胸の中にいるその人に自分が似ていることが、嬉しいのか悲しいのかわからなかった。
たとえば万が一、三蔵がこの気持ちを受け入れてくれたとしても、それは彼が僕自身ではなくその人に似ている僕を好いてのことなのだ。
僕自身―― 大量殺人犯の重罪人である、今は猪八戒という男。
なんだか絶望的な状況じゃないか。
そう考えて、八戒はますます深いため息をついた。


その時。
俯きながら歩いていた八戒の前方に、突然三人の男が立ちふさがった。
街道に沿って続く森の中から現れた男たちは、見るからにガラのよくない若い男たちだった。
派手な色に染めた髪にやたらと露出の多い軽薄な服。ジャラジャラとぶらさげたアクセサリー。
一瞬似たような外見の同居人のことが頭に浮かんだが、纏っている野卑た雰囲気が決定的に違っている。
できたら係わり合いになりたくないなと考えながら脇を通り過ぎようとすると、男たちはタチの悪い笑いを浮かべながら素早く八戒を取り囲んだ。
これは噂に聞く追いはぎか、もしくは――。
暢気に考えていると、大柄な男の手が伸びてきて八戒の肩を強く引き寄せた。
「兄ちゃん、キレイな顔してンな…ちょっとつき合ってヨ」
「俺たちとイイコトしようぜ」
別の男がいかにも意味ありげな仕草で反対側から挟み込むように密着してくる。
どうやら追いはぎじゃないようだ。まぁどちらにしても、同じことだけど。
八戒は小さくため息をついた。
最近この道は物騒で、夜に一人で歩くのは危険だと言われていた。だがまだ日が暮れたばかりだというのに、こんなに治安が悪くては困りものだ。保護観察の身なのだから、できたら殺生はしたくないのに。こんな精神状態では、加減ができないかもしれない。
「何だあ?何がおかしい!」
「馬鹿にしてんのか?」
どうやら気がつかないうちに、薄笑いを浮かべていたらしい。
苛立った様子の目の前の男が、八戒が抱えていた風呂敷包みを払い落とすと、腕を掴んで足を払おうとした。
一瞬早く自由だった膝を思い切り鳩尾に入れてやると、気持ちよく決まって男は呻きながら蹲った。だがもう一人の男に脇腹を殴られ、同時に最初の大男が首を絞めつけてくる。八戒は素早く気を掌に集めながら、目の前の男を吹き飛ばした。


「はい、そこまで!それ以上やると、おまえらの方がヤバいぜ♪」
突然八戒の首を絞めていた男が後ろに吹き飛んで、見慣れた紅い髪が八戒の目の前に飛び込んできた。
颯爽登場!とばかりに小さくウインクを寄越すと、悟浄は咳き込む八戒を庇いながら殺気だった男たちと向かい合った。
喧嘩慣れしている悟浄は、悔しいけれど八戒よりも動きに無駄がなくキレがいい。罵声を浴びせる間も与えずに、悟浄はあっという間に三人を叩きのめしてしまった。
地面に転がる男たちを見下ろす悟浄は、息も乱さず余裕の表情だ。締め付けられて痛む喉を押さえるのも忘れて、八戒はまるで楽しんでいるように優雅に舞う紅い髪に見とれていた。
「大丈夫?怪我してねぇ?」
悟浄が心配そうに八戒の顔を覗き込む。
「ありがとうございます…大丈夫…です」
咳き込みながら八戒が答えると、悟浄は見惚れるような笑顔で乱れてしまった八戒の上着の襟元を整えてくれる。
それから転がっている風呂敷包みを拾い上げると、転がる男たちのことなど一瞥もしないで八戒を促し歩き出した。
「悟浄はどうしてここに?デートはどうしたんですか?」
「フラれちゃった」
芝居がかった声で答えると、悟浄は肩を落として頭を垂れて見せた。
「めずらしいこともあるもんですね」
恋多き男は、別れの数も多いということなのかもしれない。煙草に火をつけた悟浄は恋人との別れを惜しむ様子もなく、すでに鼻歌を歌っている。
「八戒さんに傷ついたココロを癒してもらおうと思って迎えにきたんだけど、タイミングよかったな。最近ここらへん、物騒だから」
まぁ、俺なんか出る幕じゃなかったかもしれねぇけど、と付け加えた悟浄に、八戒はにっこりと笑ってみせた。
「悟浄が来てくれて助かりました。あのままだと僕、本気で殺しちゃいそうでしたから」
いつもと違う八戒の様子を感じたのか、悟浄は器用に片眉を上げた。
「なになに、お前もフラれたの?」
「ふられてません!」
八戒は嬉しそうに尋ねる悟浄を睨み付けた。フラれる以前に、自分は相手にもされていない。
「じゃあ、今から飲みにいこうぜ。今夜は二人でヤケ酒だ♪」
大きな掌で八戒の掌を握ると、悟浄は足を速めて強引に引っ張ってゆく。
「だから、失恋してませんってば」
悟浄の楽しそうな様子に、八戒もいつの間にか笑っていた。
「俺らの失恋記念日に乾杯!」
「もう…なんだかんだ言って、あなた、飲みたいだけでしょう」
上り始めた半月が照らす道を、二人は笑いながら街を目指した。





(2010.12.20)


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