ラムネ3





2




「アイシテルって…」
街角で突然耳に入ったその言葉に、僕は足を止めました。
クリームみたいに甘い囁き。
甘えるような脅すような不思議な響きは脳の奥深くを痺れさせる艶があって、
声だけで悟浄のものだとわかりました。
夕方の商店街に響く威勢のいい呼び込み、路地を駆け回る子供たちの足音、
立ち話をするご婦人方の笑い声。
こんなに喧騒に溢れているのに、狭い路地の前を通り掛かった僕の耳に、
その言葉はやけにはっきりと届きました。

それは、あの人が女を口説くためのとっておきなのでしょう。
一度も聞いたことがないその声に、僕は絡めとられたように動けなくなりました。
忙しなく行き交う人の中で茫然と立ち尽くす僕に、注意を払う者などありません。
そっと路地を覗いてみると、人目もはばからずに抱きあう悟浄と女の姿が見えました。
胸の奥がざらりと音をたてて痛みます。
急いで身を隠しながら、僕はシャツの胸のあたりを強く押さえました。
そんな風に女と連れ立っている悟浄の姿をみかけることなどよくあることなのに。
おかしなことに少し前までは当たり前のこととして、とりたてて何とも感じなかったその光景が、
今はひどく苦い水を飲まされたように苦しくて、自分の中に受け入れることができません。

どうやら悟浄がどこかへ行こうと誘っているようです。
女が何か答えを返し、二人の忍び笑いが聞こえました。
足音が遠ざかっていく気配にもう一度路地を覗いてみると、
僕のいる場所とは反対の方へ路地を抜けていく二人の後ろ姿が見えました。
どこへ向かうかなんて、わかりきっています。
後を追えば今よりもっと惨めな気持ちになるということもわかっているのに、
僕の足は迷うことなく動きだしました。
まるで夢遊病者のように、ふらふらと彼らの後をついてゆきます。


夕暮れの光に、前を行く女の髪がきらきらと輝いていました。
思わず見とれてしまうような、きれいな金色。
雰囲気はまるで違うのにふと三蔵のことを思い出して、胸のどこかが軋みました。
悟浄の腕は女の華奢な肩を抱き、時折ゆるくウェーブのかかった髪に戯れるように指が伸びています。
二人は視線を交わし囁きあいながら、とても優雅に人ごみをかわして歩いてゆきます。
まるで泳ぐようになめらかに前をゆく彼らとは対照的に、
僕は人にぶつかり罵声や舌打ちを投げつけられながら、懸命についてゆきました。

どうやら二人は街外れの一角へ向かっているようでした。
そこは風俗店や連れ込み宿が立ち並び、僕はほとんど立ち入ったことがない場所です。
迷路のように入り組んだ狭い路地を、二人は迷うことなく奥へ進んで行きます。
そして暗い路地に目立たないようにひっそり構えている小さな建物へ、素早く姿を消しました。
僕はふらふらとその建物の前まで行くと、
二人を飲み込んだ黒いガラスのドアをただぼうっと見つめていました。







「あれ?もしかして、アンタもあいつらの後、つけてきた?」
突然声をかけられて目をやると、見たことのない男が立っていました。
日が落ちて其処此処にできた路地の暗がりから、突然湧いて出たように見えました。
男は二人の消えたドアの前でぼんやりと立ち尽くす僕に近寄ると、
まるで以前からよく知る仲のように馴れ馴れしく笑いかけてきます。
銀色の短髪は染めているのでしょうか。
左の耳にピアスを5つもぶら下げていました。
大きく胸元を肌蹴たシャツの着こなしや、そこに鈍く光る派手なアクセサリー。
全体に崩れた雰囲気のする、目つきの鋭い男でした。
普段なら話しかけられてもあまり相手にしたくないタイプの人でしたが、
その人から漂ってくる匂いに、僕は虫のように惹きつけられました。
あの人と同じ、ハイライトの匂い。

「ちょっと頼まれて調べてるんだけどさぁ、もしかしてアンタも同業者?
オレの他にも雇ってるみたいなこと言ってたし」
「僕は…」
「ちょうどいいや、一人で入るといろいろ面倒だから、一緒に頼むわ」
そう言うと、男はいきなり僕の腕を掴んで強引に建物の中へ入って行きます。
男に従うつもりはなかったのですが、男が纏う匂いが麻薬のように僕の足を動かしました。
中に入ると随分と照明を落としてあり、どうやらフロントのようでした。
こちらが見えないように配慮された小窓のついたカウンター越しに、
男は先に入った二人連れの隣室を使わせろと脅しまがいに話をしています。
双方ともこんなことには慣れているのでしょうか。
男はあっさりと鍵を一本受け取ると、僕の腕を取って薄暗い廊下を歩いてゆきます。
階段を上ってすぐの部屋を開けながら、
“そっちがあいつらの部屋だと”と一つ奥のドアを指差しました。

室内はいかにも安っぽいシャンデリアや花柄の壁紙が鼻につく、白々しい雰囲気に溢れていました。
こんな場所に馴染みのない僕は、あちらこちらと目をやって、
やがて悟浄が居るはずの隣の部屋との壁に視線を落ち着けました。
きっと安い造りなのでしょう。
どこの部屋のものかわからない、水音や話し声のようなくぐもった音が聞こえてきます。
男は窓を開けて身を乗り出して隣の部屋まで雨樋を伝って行けないものかと調べているようでしたが、
やがて渋い顔をして窓を閉めました。
「こっちはダメだな。仕方ねぇから部屋から出てきたところを狙うか」
舌打ちをしながら、男は上着のポケットから小さなカメラを取り出しました。
探偵などと名乗りましたが、金で後ろ暗いことを請け負う、最低の輩のようです。

「アンタ、あいつらを調べてるわけじゃなさそうだな。もしかしてあの女、アンタのコレだった?」
男はニヤニヤしながら小指を立てました。
眉をひそめる僕に構わず、男はしゃべり続けます。
「あの女、相当派手に遊んでるらしいしな。でも、ま、ちょっと火遊びが過ぎたなぁ。
○○に知られちまったら、女もあの男もオシマイだろ」
男はこの街でかなりの実力者と言われている実業家の名前を挙げました。
裏ではかなり汚いことをしているという噂を聞いたことがあります。
あの女は実業家の愛人といったところでしょうか。
「それにしても、あの悟浄って野郎、最近金髪の女ばっかり食ってるらしいぜ。
あれ、なんていうの?フェチってやつ?なんか気持ち悪イよな」


―金髪―

それはいきなり胸を刺されたような衝撃でした。

いつも気高くて美しい、不機嫌顔の僧侶の顔が頭を過ぎりました。
あぁ、やっぱり。
悟浄は三蔵が好きなのです。無理もない、あんなきれいな人なのですから。
強さと厳しさと優しさを兼ね備えた人。
この世に並ぶ者のない、神に選ばれた稀有な存在。
“マガイモンだっていいじゃん―キレイなんだからさ”
そういった悟浄の言葉に潜んだ熱は、僕の瞳なんかじゃなくて、三蔵に向けられたものだったのです。
あの日、窓際に佇み僕らを見ていた悟浄の姿を思い出しました。
柔らかな日差しを纏いキラキラ光る三蔵の金の髪。
その後姿を見つめる、怖いくらい真剣だった紅い瞳――。


突然、足元の床がグニャリと歪んだような気がして、よろよろと壁に手をつきました。
悟浄の選ぶ金の髪の女は、三蔵の代わりなのでしょうか。
あの人は、マガイモノで満足できるんでしょうか。
気がつくと、薄い壁越しに女のすすり泣くような声が聞こえています。
消えない雨音のように僕の耳を犯しながら、少しずつ頭の中を満たしてゆきます。
「あれ、どうした?気分でも悪い?」
急に煙草の匂いがきつくなった気がしました。
傍らに立ち気遣うような素振りで僕の顔を覗き込みながら、男の口元は嫌な感じに歪んでいます。
「もしかして、アンタがあの男の…だった?」

ジ、と安っぽい壁紙に煙草を押し付ける音にも、背後から覆いかぶさるように身を寄せる男の気配にも、
僕は振り向きませんでした。
壁についたまま小さく震える僕の右手が、男の汚れた指に絡めとられ縫い付けられます。
男のもう片方の腕は、いつの間にか僕の腰に回っています。
ひどく身体が重くて、指先を動かすことさえ億劫でした。
僕はただぼんやりと、目の前の壁を見つめていました。


この壁の向こうに、あの人がいるのです。
金の髪の女を、まがいものを抱きながら、あの人は誰を、何を想っているのでしょうか。
同じ匂いのこの男なら、あの人の代わりになるのでしょうか?


もう、なにも、わからない――


耳元に囁かれる粘りのある言葉と、ゆっくりと這い始めた男の掌の意味を考えることができずに、
僕は瞳を閉じました。





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(2010.9.9)



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