ラムネ3





3




「昨日街外れのホテルでさぁ」

僕は洗い終った皿を布巾で拭いていた手を止めて、ゆっくりと顔を上げました。
遅い朝食を終えた悟浄はこの世の至福を集めたような顔をしながら、ゆらゆらと煙を吐き出しています。
ソファの背もたれにだらりと身を預けて足を投げ出し、行儀が悪いことこの上ありません。
天井を仰いで思い出したように笑いながら、悟浄は続けました。
「男が、ハンゴロシになったんだぜ」
僕は手の中の皿と布巾に目を戻すと、その眩しい程の白さに目を細めました。

「そうですか。お知り合いの方だったんですか?」
「いんや。俺はたまたま隣りの部屋にいたんだけどさぁ」
「そんなところで、何をしていたんです?」
悟浄は聞くだけ野暮でしょという顔でニヤリと笑いました。
「そいつ、最近俺の周りをうろうろかぎ回ってたヤツでさぁ、昨日も俺をつけてたらしいのよ」
「あなた、何か悪いことでもしているんですか?」
悟浄は肩をすくめました。
「べっつに〜、いつも通りだけど?
そいつ少し前から、行きつけの酒場や賭場で、俺のコトあれこれ聞いてたみてぇ」
「あなたのファンだったとか」
にっこり笑いかけると、悟浄は嫌な顔をしてみせながら、短くなったタバコを灰皿に押し付けました。
「野郎に好かれても嬉しくねぇし。それにしても、ちょっと気の毒なくらいのやられ様だったなぁ」
「そんな危ないところには、近寄らないほうがいいんじゃないですか?」
「そうだな。世の中にはコワい奴がいるみたいだし?」
「そうですよ」

あんな所には、近寄らなければいいのです。
上機嫌に新しいタバコを取り出した悟浄の様子を眺めながら、僕は胸の内で呟きます。
どうせマガイモノなんかじゃ、満たされないのですから。
僕は昨日、はっきりと知りました。
後ろから壁に押し付けられ男の掌がシャツにかかった瞬間、僕の体は勝手に動き出して、
気がつくと男は床に倒れて呻いていました。
肋骨と肘と手首と顔面と、あとはどこの骨を折ったものか。
よく覚えていませんし、どうでもいいことです。
ちょっとやりすぎてしまったと反省してはいるのですが、いずれにしてもやはり最低な輩でした。
たとえ一時甘い夢を見せてくれるのだとしても、ニセモノで誤魔化すことなど出来はしないのです。
悟浄のココロだって、きっとあんな女たちでは満たされないのでしょう。
だからきっと、いつか。
あのきれいな人に、手を伸ばす日がやってくる――。



少しぼんやりしながら最後の皿を拭き終わり、棚に収めました。
次は掃除をしなくては、と部屋を横切ろうとしたときです。
長い腕が伸びてきて、僕の手首を捉えました。
「ちょっとココにきて」
緩く引かれて僕は倒れるように悟浄の隣へ座り込みます。
「まだ掃除が…」
「そんなモン、後でいいから」
悟浄は甘えるように僕の肩にもたれかかりながら、僕の髪に指を絡めて引き寄せました。
「タバコ、吸った?」
「…ええ、さっき、一本だけ」

それは三蔵が残していった煙草でした。
三蔵は時折、テーブルの下やソファの陰に、残り僅かなマルボロのケースを落としてゆきます。
何度か次に会う時に返したことがあったのですが既に湿っているようで、
三蔵は受け取るとすぐにゴミ箱に捨ててしまうのです。
もしかしたら残りが僅かなので、わざと置いていっているのかもしれません。
悟浄に話をしたら“そんなもん捨てちまえ”と言われたのですが、なんとなく捨てられなくて。
なので最近では、時折気晴らしに僕が吸っています。
少しだけ、自分が“きれいなもの”になった気分になれるのです。
そんなものは幻想だと、わかっているのですが。


長い指が僕の髪を揺らします。
昨日金の髪に愛しげに触れていた指が、まるで子供が遊ぶようにクシャクシャと僕の髪をかき上げます。
「いつもはオレの匂いなのに」
きっと匂いが髪に残るのでしょう。
悟浄は少し恨めしげに呟くと、髪を梳いていた指を滑らせて、僕の顎を捉えました。
それだけでもう僕は、全身を絡めとられたように動くことができません。
「タバコも、あれも、」
そう言って、悟浄はあの日からソファの脇の小机の上に載ったままの白い壷にちらと目をやりました。
「あいつにもらったんだろ?」
紅い瞳がすぐ目の前で揺れています。
怒っているのかと思ったのですが、思いがけず寂しそうな瞳を向けられて、胸がしめつけられます。
「それから、八戒って名前も、この…瞳も」
悟浄は動けない僕の右目に指を添えて、眼科医のように僕の瞼をゆっくりと開きました。
「俺はお前に、何にもやれねぇのに」
それは悟浄が、僕には何もくれる気がないということなのでしょうか。
僕はこうやって傍にいられるだけで、十分なのに。たとえ想いが向けられることが、なくたって。
悲しいのか嬉しいのかわからなくて、僕の左目から涙が零れ落ちました。
「で、も…っ」
少しでも動くと右目を傷つけるかもしれないという恐怖と、
悟浄に触れてもらえる悦びで、僕の舌はうまく動きません。
それでも懸命に言葉を繋ぎます。
「でも、僕は…、あなたが、拾って…くれ、たことが…何より…うれしい」
こうしてこの人の傍にいられるのは、気まぐれでも何でも、
この人が僕を拾ってくれたからなのです。
「だから、僕は…あなたが…」
「かわいいコト、言ってくれるじゃん」
悟浄はゆっくりと僕の瞳に唇を寄せると、そっと僕の右目を。
まがいものの瞳を舐めました。


それから悟浄は僕の顔から指を離すと、腕を伸ばして壷を手に取りました。
膝の上に置いて蓋を開けると、中から一つ取り出します。
「じゃあご褒美な、八戒」
床に撒き散らしたあの日から、悟浄はラムネをくれることはありませんでした。
僕が拾い集めたラムネたちは、白い壷の中にひっそり収まって、
この日を待っていたのかもしれません。
器用な指がセロファンを剥いて、白い塊を僕の目の前にかざしました。
ショッキングピンクのセロハンが、悟浄の指先を離れてゆっくりと床に落ちてゆきます。
それを目で追う余裕もなく、僕は慌てて悟浄が差し出すラムネを口に含みました。
久しぶりに味わうラムネは、やはり変わることなく甘く苦く、舌の上で溶けてゆきます。
まるで飢えていたように懸命にラムネを味わう僕を、悟浄は目を細めて見ていました。

口の中の塊が消えてしまい小さく息をついた僕を笑うと、悟浄はまた一つラムネを取り出しました。
僕は安堵の表情を浮かべていたに違いありません。
丁寧に剥いた黄色のセロハンが、またひらひらと床に落ちてゆきます。
親指と人指し指の先に挟んだ白い塊を僕の口元に差し出すと、悟浄は動きを止めました。
そっとラムネに唇を寄せても、さっきのようには口の中にラムネが落ちてきません。
「八戒」
促すような呼びかけに、恐る恐る唇でラムネを銜えて悟浄の顔を見上げました。
思いがけず向けられたやさしい瞳に、胸が大きく音を立てます。
と、いきなり口の中にラムネと一緒にきれいな指が侵入して、僕の舌を捕らえました。
「舐めて、八戒」
昨日耳にしたあの声で、悟浄は囁きました。
身体の奥から熱がこみ上げて、痺れるように広がってゆきます。
「…ん…っ」
甘く爽やかな香りを放つラムネとタバコの匂いの染み付いた指を含むと、僕は夢中で舌を絡めました。
ラムネが溶けてしまっても、僕は懸命に口中でなまめかしく動く指を追っていました。
息が上がってしまい全く余裕のない僕の様子を満足そうに笑いながら、
悟浄は指を抜いて唾液の伝う僕の頬をぬぐってくれました。


また一つ、悟浄はゆっくりと壷の中から包みをとりだしました。
今度は真っ赤な包みです。
ことさら丁寧にセロハンを剥がすと、悟浄はじっと僕の瞳を覗き込みました。
それから。
ゆっくりとその白い塊を、自分の唇に挟みました。
真っ白いラムネを銜えた唇で、誘うように笑うのです。
「おいで」
僕はまるで神聖なものに触れる咎人のように、おずおずと唇を寄せました。
胸がうるさいほど高鳴り、身体中に燻る熱で頭の中が溶けてしまうのではないかと思うほどです。
唇が触れるか触れないかの位置で躊躇う僕を、目の前の紅い瞳が笑っています。
と、大きな掌が首筋に触れて、強く引き寄せられました。
唇が触れた瞬間、僕の身体は情けない程震えて、
それでもしがみつくように悟浄の首に腕を回していました。
二人の唇の間にあるラムネを自分の口中に入れようとするのですが、悟浄は放してくれません。
逆に悟浄の口の中に消えて行こうとするそれを追いかけて、
自然と僕の舌は悟浄の口中に迎え入れられました。
うまく息ができなくてあえぐ僕の背をさらに煽るように器用な指を這わせながら、
悟浄は深く舌を絡めます。
甘い息遣いが静かな部屋に響きます。
二人の間で、ラムネがゆっくりと溶けてゆきました。

悟浄はそっと唇を離すと、呆然としている僕を見て満足気に笑いました。
「俺はコレしかやれねぇけど、どうする?もっとほしい?」
答えはきまっています。
大きく頷いた僕を見て嬉しそうに笑うと、
悟浄はまたセロハンを床に落とし、ラムネをその唇に銜えました。
今度は迷うことなく、唇が重なります。
それから二人の口内で、何度もラムネが溶けていきました。
もう甘いのか苦いのかわからない。
どちらの舌なのかも分からないほどに、絡み合います。
いつの間にか僕たちの足元は、色とりどりのセロファンで彩られていました。

「もっと食べて、八戒…」
うっとりと、まるでひどく感じているように、悟浄は囁きます。
僕はもう、深い性交に溺れるように感じきって吐息を漏らしました。
ただ、ラムネを口にしているだけなのに。

そして内側から与えられる熱に酔いながら、ふと思いました。
このラムネは、何を意味しているのでしょう。
なぜ悟浄は僕にラムネを食べさせるのでしょう。

「食べて…八戒」

悟浄は僕に、何を望んでいるのでしょう。





end



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(2010.9.16)


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