ALL YEAR AROUND FALLING IN LOVE
8.仲秋
金木犀の香りはどこまでも追いかけてくる。
探しだした本の背表紙に指を伸ばした時、薄暗い書庫の中に甘い香りが入り込んでいることに気がついた。
こんな閉ざされた部屋にどこから?と不思議に思い、抱えていた本を置いてドアを開けた。乾いた空気に混ざって届く甘苦しい香りの元を探したが、緑の多い寺院の庭に金木犀は見当たらなかった。
庭を囲むように廻らされた廊下に人影はない。僕は思いきり伸びをして、秋の爽やかな空気を吸い込んだ。
最近では昼間も滅多に暑さを感じなくなった。季節の移り変わりは思っている以上に駆け足だ。
悟空の勉強をみるという名目でここへ来たものの、肝心の悟空は昼寝中だった。
書類仕事がたまって不機嫌な三蔵にお茶をいれていると、先日から取りかかっている書庫の整理が一向に終わらねえと苛立ちまじりにぼやかれた。手伝いをかって出て一人で書庫にこもってみると、滅多に目にすることができない希少な書物ばかりが納められていて、時間がたつのを忘れて熱中してしまった。
悟浄は泊まり込みで麻雀らしく、今夜は帰らないと言って出かけて行った。それはもしかしたら女性と過ごすための言い訳だったのかもしれない。口実を用意してまでここへやって来たのは、家に一人で居たくなかったからだ。今夜は仕事も休みだからゆっくり休めるいい機会だというのに、一人で過ごす夜の虚しさを思うとなかなか帰る気になれなかった。
きりのいい所までと自分に言い訳しながら片付けに没頭していて、気づいたら日が暮れていた。目を覚ました悟空が途中から手を貸してくれたおかげで、書庫は三蔵が満足する程には片付いた。
遅くなったから泊まっていけと無邪気にひきとめる悟空に、珍しく機嫌よく同意した三蔵の言葉に甘えて、結局一晩厄介になることになった。
寺らしい質素な食事をいただいて悟空が眠るまでトランプをしたりお喋りをして過ごした。
ここに身を置いていた短い間の記憶は楽しいものではないけれど、あの頃はこうやって穏やかな時間を過ごせるようになるなんて思いもしなかった。
クルクルかわる悟空の表情に笑顔を返しながら、僕は新聞を読む三蔵の横顔をそっと窺った。あれから彼があの雨の日のことに触れたことはない。呆れながらも許してもらえたということなんだろうか。
案内されたのは以前過ごした部屋だった。寝付く前に遠くに雷の音を聞いたような気がしたが、疲れていたようですぐに眠りに落ちた。
ふと目を覚ますと、ゴロゴロと地響きのような音が鳴っていた。どうやら雷が近づいているようだ。
つけっぱなしで寝てしまった枕元のスタンドの灯りが、天井をオレンジに映し出している。その色に、昼間見つけられなかった金木犀の小さな花を思い出した。このまま雨が降ったら、全て散ってしまうだろうかと考えながらぼんやりしていると、やがてぽつぽつと窓を叩く音が聞こえてきた。
あっという間に激しくなった雨音が落ち着かない気持ちにさせて、僕は寝返りをうって息を吐いた。
こんな夜に起こった忌まわしい出来事を嫌でも考えてしまう。
今でもあの時のことを思い出そうとすると頭がぼうっとしてあやふやな心持ちになるのは、無意識に自分の罪から目を背けようとしているからなんだろうか。ずるずると暗い方へ沈んでゆきそうになる思考を止めるため、僕はベッドから起き上がった。
喉の渇きを覚えて、部屋に備え付けてある水道に寄って蛇口をひねる。勢いよく流れ出た水に触れるとその冷たさに頭の中の靄が少し晴れた気がした。コップがないことに気がついて視線を彷徨わせると、目の前にかかった鏡に目がいった。
鏡に映る、碧の瞳。
“きれいだな”
あれは同居を始めてすぐのことだったろうか。ドギマギするほど近くに顔を寄せて、僕の瞳を覗き込んだ悟浄。
“それ、義眼?すげえきれいだな”
恩知らずな僕は、あの時初めて心から三蔵に感謝した。それまで、自分に義眼なんて勿体ない。片目しか残ってなくとも構わなかった、なんて罰当たりなことを考えていたのに。
悟浄はいつもさりげない優しさで、身勝手な僕を受け入れてくれる。それだけで十分だ。
何度も言い聞かせてきた言葉を胸の内で呟きながら、僕はノロノロと蛇口に手をかけた。
流れ続ける水音が雨音のようで息が苦しくなる。
その時。
「!」
窓の外に白い稲妻が走り、 天と地を響かせ落雷した。
思わず洗面台にしがみついて息をのむ。足がガクガクと震えて崩れ落ちそうになった。
そういえば今年の夏は雷が少なかった。こんな激しい雷雨は、梅雨の終わりのあの日以来だと気が付いた。
鏡の中には、真っ白な顔をした男が映っている。
碧の瞳を歪ませてこちらを睨みつける男は、多くの人の命を奪った殺人鬼。
「!」
轟音とともに、ひどく近くに落雷した。スタンドの灯りが不安そうに点滅する。
“壊さなければ…”
突然胸の奥から沸き上がった強い衝動に僕は震えた。
不安定な光の中に浮かび上がる男の瞳めがけて、思い切り拳を叩きつける。
あの人がきれいだと言ってくれた瞳がひび割れた。それでもまだ、男は鏡の中でこっちを見ている。
ああ、だめだ。あいつを、あの殺人鬼を壊さなければ…
もう一度力いっぱい鏡を殴り付けた。右手に鋭い痛みを感じながらも衝動は止まらない。
さらに右の拳を振り上げたとき、僕は動きを止めた。
こんなことが、前にもあった気がする。
頭の中に唐突に現れた不確かな記憶。
一体これはなんなんだ?こんな夜が確かにあった。でも、一体いつ?
突然、また稲光とともに轟音に包まれた。
息をのむほど大地が揺れて、一瞬部屋が真っ暗になる。
破片がささってズキズキと痛む拳を握りしめたまま、僕は茫然としゃがみこんだ。
「ああ…」
痛みと共に、霧が晴れていくように記憶が甦る。
ひどく間近で不機嫌そうに細められた紫の瞳。煙草の匂い。強引に引き倒されて開かれて。この身の内に確かに感じた、痛みと熱…。
僕は以前に三蔵と――。
なぜ忘れていたんだろう?なぜ、今になって思い出した?
“まだこんなことしてんのか。”
あの雨の日、耳元であやすように囁いた三蔵の声を思い出した。
“まだ”というのは…こういうことだったのか。
その時、部屋のドアがそっと開いた。
蝋燭の灯に浮かび上がる金の髪。
僕の惨状に驚く素振りもなく、三蔵は部屋に入ってきた。
「…また、鏡を割ってしまいました。」
絞り出した僕の言葉に高貴な人は一瞬目を細めてため息をつくと、僕の髪を撫でた。