ALL YEAR AROUND FALLING IN LOVE





5.梅雨





その時、まるで時間が巻き戻ったみたいだった。

ひどい雷雨の中、10日ぶりに家へ帰る俺の足を止めさせたのは、いつか目にした光景だった。
雨と泥に濡れて地面に倒れ伏す男。
それはあの日、血に染まり、いつ息絶えてもおかしくない程の重傷を負いながらも、俺を見て暗い瞳で嗤った男だった。身体は果てかけているのに、その瞳から溢れる激しい想いだけは、強烈な強さで輝いていた。全てのものを憎み蔑むようなそれは、多分八戒自身に向けられたものだったんだろうけど。
その想いの強さに、俺は一瞬で心を掴まれた。あの時、厄介事に巻き込まれるかもしれないとわかっていながらあいつを連れ帰ったのも、死ににゆくあいつをらしくない衝動で追いかけたのも。あいつに出会った瞬間から、惹かれていたからだ。

だが今日、雨の中で地面に突っ伏している八戒を目にしても、俺の足は一歩も動かなかった。
八戒を支え起こした三蔵の、泥に塗れても汚れることのない昂然とした姿は、俺のいる場所からはひどくかけ離れていて。
何かを求めるように三蔵に縋りながら立ち上がりその胸に抱きしめられた八戒は、まるで救い主を見つけた迷い人のようで。
抱き合うように雨に濡れる二人の姿に、俺は声もかけられず立ち尽くした。
そして突然ある思いが頭を過ぎり、胸を衝かれた。
あの雨の夜、八戒を抱き上げるべきだったのは俺じゃなくて三蔵だったんじゃないか。
実際には有りえないことなのに。もう時間を戻すことなどできないと、わかっているのに。
俺がここにいることが、そもそも間違いなんじゃないかと。






「くそっ!」
濡れて体に張り付いた上着を剥ぎ取ると、思い切り床に投げ捨てた。雫の落ちる髪をタオルで乱暴にかき回し、濡れるのも構わずにソファに座り込む。風呂場に残してきた八戒の気配に自然に深いため息が口をついて、タオルに顔を埋めながら俺は強く奥歯を噛み締めた。
この家にきて間もない頃、八戒は雨が降ると落ち着かない様子でうろうろしたり、かと思うと急にふさぎ込んだりした時期があった。辛い記憶と雨は切り離せないものだとわかっていたから、そんな時はなるべく家にいて気を紛らわせるように話し相手になったり、時にはわざと放っておいたりもした。
時間にしか癒せないものに、逆らってみても仕方がない。あいつが上手く自分自身で折り合いをつけて、雨の日を凌いでいく術を身に付けるしかない。
そう自分に言い聞かせ、なんとかしてやりたいと焦る気持ちを堪えながら見守るうちに、八戒は少しずつ落ち着いてきた。
ここ数ヶ月は雨だからといって、別段変わった様子も見せていなかった。もちろんすっかり吹っ切ったというわけではないんだろうけど、もう一人でも大丈夫だろうという油断があったのは確かだ。
今頃こんなことになるなんて、あいつに一体何が起こった?

俺はタオルから頭を上げて、部屋の中を見回した。
あいつがこの家にきてからつけ替えた、落ち着いた色のカーテン。出かけるときには開いたまま放り出していったはずの雑誌がきちんと揃えて並んでいる棚。よく磨かれた食器やグラス。作りかけの料理が置かれたシンク。
この数か月で馴染んでしまったあいつの気配は、俺が出かけた時のままだ。
サイドテーブルの上にきちんと揃えて置いてある煙草と灰皿は、何日も留守にしていたのにホコリも被っていない。きっと俺がいつ戻ってもいいように用意いておいてくれたんだろう。
別れ際の三蔵の言葉によれば、最近八戒は体調が悪かったということだ。だがそれだけで、どうしてあんなふうになるのか。
この家に帰ることを、あいつに会うことを楽しみにしていたはずなのに、今は胸が痛くてたまらない。


ふと風呂から聞こえるシャワーの音に意識を戻し、いくらなんでも時間がかかりすぎていることに気がついて舌打ちした。急いでドアを開けると、思った通り八戒は降り注ぐ水の下で、ぐったりと座り込んでいる。
「八戒っ!」
強く呼びかけると、じっと床を見つめていた八戒は弾かれたように俺を見上げた。潤んだ碧が怯えたように揺れて、伏せられる。慌てて立ち上がろうとした身はぐらりと揺れて、崩れ落ちそうになった。急いで抱きとめると、八戒は身を硬くして俺の腕を押し返した。
「大丈夫、ですから…」
ちょっと立ちくらみで、と続けながら俺の腕から抜けだそうと身を捩る。その身体はひどく冷たい。
「どこが大丈夫だって?」
不機嫌に返しながら急いで大きなタオルを巻きつけた。
「今日は大人しくしとけ、…な?」
力の入らない八戒の抵抗を易々と押さえつけると、俺はタオルごとその身体を抱き上げた。
腕の中はぞっとするほど軽かった。こいつを拾った時よりも軽いくらいだ。
“ろくに食ってないらしい”
去り際に囁かれた三蔵の言葉を思い出して胸の中で舌打ちした。
抱き上げられた八戒は慌てて抵抗していたが、すぐに諦めたように大人しくなった。眩暈がするのか、絶えるように眉間をよせて目を閉じている。そのまま、震える声で呟いた。
「…ベッドに運ぶのは最後だったんでしょう?」
「今日は特別サービスだ」
青ざめた唇が、小さく微笑みを形作った。
「あなたは…いつも、優しいんですね」
「ナニよ、今さら」
こんなことでもなければこの腕に抱くこともできない、細い身体。柔らかく濡れた髪。
今だけは許されると思うと、喜びと哀しみがない交ぜになって、胸が痛くてどうにかなりそうだ。

ベッドに運んで寝巻を着せ布団に包んでも、冷えきった身体はなかなか温まらなかった。そっと冷たい頬に触れてみる。
「冷てぇな。一緒に寝てやろうか?」
ふざけた調子に応えるように、八戒は小さな笑顔を見せた。
「ごはん…まだ出来ていないんです」
「そんなもん、いいって」
「少し眠ったら、作りますから」
「サンキュ。久しぶりに一緒に食おうな」
その言葉になぜかとても悲しそうに微笑んで、八戒は目を閉じた。
「悟浄…」
「ん?どうした?」
閉じた左目から、一筋の涙が頬を伝った。
「ごめんなさい」
ため息のように囁くと、八戒は糸が切れたように意識を手放した。
その薄い胸が規則正しい呼吸を始めても、俺はただ、涙が乾いてゆくのを見つめていた。






翌朝、耳慣れない音に目を覚ました俺は、ベッドから飛び起きて台所へ向かった。窓から差しこむ光は、昨夜の雨が嘘のようにまぶしく輝いている。
「八戒?」
ドアを開けるなり呼びかけると、細い腰にエプロンを締めた八戒がゆっくりと振り向いた。
狭い部屋にはやけに陽気なラジオの音が響いている。シンクの脇に置かれたラジオのボリュームを絞りながら、八戒は柔らかく微笑んだ。
「おはようございます、悟浄。ごめんなさい、ラジオが煩かったですか?」
小さく首を傾げながら、八戒は嬉しそうに続ける。
「今日はとてもいい天気ですから、お布団を干そうと思うんです。こんなに気持ちよく晴れたのは何日ぶりでしょうね。あちらのお天気はどうでしたか?あ、お味噌汁ちょうどできたところなんですよ。今日はなすと油揚げにしてみました。この季節は冷やして食べても美味しいんですけどね。卵はどうしますか?目玉焼きでいいですか?僕、なんだかとてもお腹がすいてしまって…。もうすぐできますから、一緒に食べましょう。」
呆れるくらい喋り続ける八戒は、顔色は悪いが妙にさっぱりした表情をしていた。
見掛けによらず八戒は普段から饒舌だが、こんなに言葉を吐き出し続ける姿は初めてだった。まるで壊れたラジオみたいだ。
「八戒…」
「最近家事をするときはラジオを聞いているんですよ。一人ではなんとなく寂しい感じがして。でも悟浄が嫌いでしたら止めますから言ってくださいね。あ、それから…」
「八戒!」
俺の声に、八戒はぷつりと口を閉ざした。八戒が黙るとラジオから流れ始めた少し前に流行った曲が、妙に白々しく部屋を満たした。
「夕べは…迷惑をかけてしまって、すみませんでした」
うなだれて肩を落とした八戒は、深々と頭を下げた。
「そんなこと、いいから。具合悪いんだろ。ベッドに戻って寝てろよ」
「もう大丈夫です。本当に…ごめんなさい」
それから突然顔を上げると、八戒は真剣な瞳で俺を見つめた。
「僕はまだ、ここに居てもいいんでしょうか?」
「…なんでそんなコト、聞くの?」
「もう傷も治りましたし、仕事も見つかりましたし。それに僕は…あなたに迷惑ばかりかけてしまうから」
八戒は眉根を寄せて、辛そうな顔をした。
「そう思うんなら、気をつけりゃいいだろ?だいたいあんな雨の中で何してたんだ?」
「ちょっと散歩に出たら雨が降りだしまして、ぬかるみに足を取られて転んでしまったんです」
そんな言い訳信じるわけがないと、わかっているんだろう。何も返さずジロリと睨めば、八戒はきまり悪そうに視線を逸らせた。
「俺のいない間、ろくに食ってなかったって聞いたけど?」
「ちょっと風邪をひいてしまって食欲がなくて…。でも今朝はとてもお腹がすいているので、食べられそうです」
八戒は安心させるように、微笑んだ。
そんな白い顔で微笑まれても、痛々しいだけだ。まぁ言いたくないなら、無理には聞かねえけどな。

「お前がいたいだけ、ココにいればいいじゃん。俺は今の生活、気に入ってるぜ。居心地のいい家にうまい料理。それになんて言っても美人さんと一緒だしな」
冗談めかして肩を叩くと、八戒はゆっくりと俺の瞳を覗き込んだ。
「どうして僕なんかに、こんなによくしてくれるんですか?」
まるで幼い子供のように、小さく首を傾げて問いかける。
「あたりまえじゃん、ダチなんだから」
目の前の碧が大きく開いた。
「友達…って。鷭里さん、みたいに?」
その瞳に一瞬ひどく真剣な表情が浮かんで、俺は胸を衝かれた。あの事件は嵌められた俺よりも、何故か関係がないはずの八戒に深い傷を残している。
「アイツなんかより、ずっーとまともなダチだけどな。八戒さんのためなら、身代わりだって何だってしちゃうし?」
軽い気持ちで口にしたら、八戒は怖い顔をして俺を見据えた。
「そんな必要はありません。もうあなたに、二度とあんなことはさせませんから」
きっぱりと言い切られて、俺は言葉につまった。その瞳の中に、あの時俺を惹きつけた狂気に似た光が浮かんでいる。
だが八戒は、すぐににっこり笑って続けた。
「でもたまには買出しにはつきあって下さいね。重いものを運ぶのは、結構大変なんですよ。お米にお酒、醤油にお砂糖、お塩や牛乳や…あ、トイレットペーパーも嵩張って大変なんですから。」
指を折りながら列挙する姿は、いつもの八戒のように見えてホッとする。
「荷物持ちでも何でもするし。恋バナだってきいてやるからさ。」
八戒は一瞬目を見開いて、俺の顔を見つめた。
それからふわりと、それはきれいな――きれいすぎる微笑みを見せた。
「あなたの恋の話も、いつでも聞きますよ」

これで俺たちはずっと友達だ、なんてガキみたいなことを考えている自分に笑ってしまう。
陳腐な言葉にしがみつくほどに、俺はこいつと離れたくないんだと思い知った。
この想いが報われないことも過ぎた願いだということも、始めからわかっていたはずだ。いまさら距離を置こうなんて、俺はとんだ大馬鹿野郎だ。


「さぁ、食べましょうか」
向かい合って座り芝居がかったふうに両手を合わせ、イタダキマスと唱えて笑いあう。
向けられる瞳の穏やかな光に胸が疼くけど、この痛みにはきっとこれから慣れてゆくから。

背中で流れるラジオのニュースが、小さな音で梅雨明けを告げていた。








(2010.7.31)

←back / next→



←novel