ALL YEAR AROUND FALLING IN LOVE





4.梅雨






今日はやけに暗くなるのが早いと思ったら、窓から流れてくる風に雨の匂いが混ざっていた。
夕飯の仕度をしていた手を止めて急いで外へでてみると、さっきまで灰色の雲間越しに頼りない陽射しを投げかけていた太陽はすっかり姿を隠している。見上げれば、なま温かい風にのって西の方から真っ黒な雲が次々に押し寄せていた。
あぁ、まただ。
僕はため息をついて、乾ききらないままの洗濯物をとりこみ始めた。最近はこんなことばかりだ。気の滅入るような雨が何日も降り続き、やっと上がったかと思えば、突然夕立がやってくる。
天気の変化くらいで気が滅入る自分に苦笑いしながら雨に備えて家中の窓を閉めると、僕はまるで檻の中の小動物のように落ち着きなくうろうろと部屋の中を歩き回った。
悟空の来訪から二日たっても、悟浄は戻ってこない。今日あたり帰ってくるような気がして、梅雨の晴れ間を利用して朝のうちに買い物に出かけたので、冷蔵庫の中は満たされている。作り置きできるものを少し用意しておこうと、ちょうど台所に向かったところだったのに。
僕は訳もなく部屋の隅に置いてある本を積み直し、テレビのリモコンの置き場所を変えてみてからまた戻して、それから所在無く部屋の中を見回した。
こんなに落ち着かないのは、悟浄が戻ってくる予感からか。それともやってくる雨のせいなのだろうか。
「!」
やけにはっきり“ポツリ”という音が聞こえて目をやると、窓の外は一瞬でカーテンが降りたように雨が降り出していた。
僕はゆっくりと窓によって、目をこらした。ごうっという音をたてながら地面を穿つように降る雨で、窓の外は白く煙っている。
ガラスに隔てられた部屋の中にいてさえ息苦しくなるような激しい雨に、僕は息をのんで見入っていた。
――いつかこんな雨を見たことがある――
ふいに全身が粟立ち、震えが走った。
天が怒っているかのように叩きつける雨。耳にこびりついて消えない激しい雨音。
痛いほどに喉が渇き、不快に音をたてる胸に唇を噛み締める。奇妙に懐かしい気持ちを覚えながら、僕は食い入るように窓の外を見つめた。
その時。
「っ!」
突然目の前が明るく光り、間髪おかず地面を揺るがす轟音が響き渡った。
「!!」
次の瞬間目の前が真っ白に光り、鼓膜が破れるかと思う程の雷鳴が大地を揺らす。
冷たい汗が背を伝い、震えはますます酷くなる。
僕は激しく音をたてる胸を押さえながら、きつく目を閉じた。











「あ…」
気がつくと、僕は雨の中にいた。
降りしきる雨の中、冷たい地面に横たわっている。
「あ…れ…?」
驚いて身を起こそうとしたが、ひどく身体が強張っていて力が入らない。頭の先から足の先までぐっしょりと濡れていて、鉛が詰まっているように身体中が重かった。
なんとかのろのろと手足を動かして仰向けになると、天から突き刺さるように落ちてくる雨で目が開けられない。驚いて横向きに姿勢を変えると、今度は泥が目や口に飛び込んできて、慌てて目を閉じた。
かけていたはずの眼鏡がなくなっていることに気がついて辺りを手探りしたが、触れたのは冷たい泥水だけ。
雷鳴が少し遠くで聞こえていた。雷は峠をこえたみたいだと可笑しなくらいのんびりと考えて、それからやっと、ここはどこだろうと思い至った。
もう一度ゆっくり顔を動かして目を凝らすと、真っ暗な木々のシルエットが陰鬱な雨に塗りこめられている。
ちょうどその時、空に稲妻が走り、一瞬辺りの様子が白く浮かび上がった。
どうやらここは街へ行くために抜ける森の中のようだった。今朝も市場へ買い物に行くために往復した、家と街のちょうど中間あたり。今は暗くてはっきりと見えないけれど、ちょうど見ごろに咲いた青や赤紫の紫陽花があちこちに群れている場所。
そして以前に悟浄が、死にかけていた大量殺戮犯を拾った場所――。
そう思った瞬間歪んだ笑いが込み上げて、僕は声をたてて笑った。
なんで僕は、こんな所に…。

あの人に拾われた時のことを僕は覚えていない。
“雨の夜にこの場所で、血だらけで腸を晒してぶっ倒れてたのを、オレが拾ってきたの。”
初めてこの道を通った時、悟浄がそう教えてくれた。血と雨で滑って運ぶのが大変だったとか、腸を戻すのに往生したとか、煙草が吸えなくて死にそうだったとか、冗談めかして悟浄は笑っていたが、ひどい迷惑をかけたことはよくわかった。
死にかけていた見ず知らずの男なんて、見ないふりで放っておいても構わなかったのに。あの人は看病までしてくれて、僕が罪人だと知っても嫌な顔も見せなかった。許されたというものの行き場がない僕を引き取って、あの家に居場所を与えてくれて…。
本当に優しい人だ。僕に何一つ望むことなく、ただ傍に居ることを許してくれている。
それで満足していればよかったのに。欲深い僕は、求めてしまう。このままでは、執着する。過ぎればきっと、また罪を犯す。
あの時僕はこの場所で、死んでいるはずだった。そうすればあの人に迷惑をかけることも、やがてくる破滅に怯えながらあの人を想うこともなかったはずだ。
僕はもう一度ゆっくりとうつ伏せになってみた。泥に顔をつっこむような姿勢になってしまうが、僕にはそれが相応しいと思った。
朝は固く僕の靴を受け止めていた地面は、雨で一面泥濘るんでひどい状態だった。胸や腹も泥水に浸かり、ひどく冷たい。
でも僕は安堵していた。これなら、すぐにあの日に帰れるだろう。
あの人に見つけてもらう前に。この想いを知る前に。

その時急に、身体に震えが走った。
記憶はないが雨の中を歩き回り、挙句の果てに水溜りに突っ伏しているのだから当然だろう。
雨はさらに激しくなって、僕の背を強く叩く。身体中を縛るような冷たさに震えながら、僕は目を閉じた。
ぼんやりと地面を穿つ雨の音を聞いていると、思わず笑いが込み上げた。
我ながらひどい自虐趣味だ。どうかしている。



「なに笑ってやがる」

唐突に声をかけられて、息をのんだ。うつ伏せたままのろのろと顔を上げると、すぐ傍に立つ白い法衣が目に入った。
そのまま視線を上げてゆくと、三蔵が整った顔を歪めて僕を見下ろしていた。
雨と泥が目に入ってしまいはっきりとその表情までは見えないけれど、ひどく不機嫌な空気を纏っているのはわかった。
激しい雨のせいだろうか、これ程近づくまで三蔵の存在に全く気が付かなかった。いや。きっと気配を消すのが上手いのだろう。
三蔵は手に傘を持っていたが、さしてはいなかった。この雨ではほとんど役にたたないのかもしれない。
「お前は…まだ、こんなコトしてんのか?」
呆れたような声の響きに、僕はいたたまれなくて目を伏せた。目に入った三蔵の足元は、泥濘で汚れてしまっている。
三蔵はそんなことには構わず身を屈めると、泥で惨めに汚れているだろう僕の顔をじっと覗き込んだ。
向けられた紫暗の瞳に怒気はなかった。白くきれいな指が伸びてきて、張り付く髪を撫でるようにゆっくりと汚れた僕の頬に触れる。
「仕方のねぇやつだ」
その言葉に含まれる響きに、僕は目を瞠った。怒りや諦めではなくて、まるで宥めるような、甘やかすような、不思議な響き。
それに、さっきの“まだ”って…一体どういう意味だ?

三蔵は身を起こすのを促すように、僕の腕を掴んだ。冷えきって強張った身体を震わせながらぎくしゃくと身を起こして辺りに目をやって、僕は自分の状況をはっきりと思い知った。
雨にたたきつけられて木の枝は頭を垂らし、ちぎれ落ちた木の葉が泥濘のあちらこちらに散乱している。泥濘の中僕を見下ろして立つ三蔵の髪からも途切れることなく雨が滴り落ちて、そのきれいな顔を濡らしている。
僕は大きく震えて、唇を噛み締めた。なんて馬鹿げたことをしているんだろう。雨で身体の熱が奪われてゆくのと同時に、狂気に囚われていた頭も冷えてきて、僕は自分の愚かさに打ちのめされた。
茫然としている僕を促して、三蔵は自分の肩に僕を縋らせ立たせようとする。僕は両足に力をこめてゆっくりと立ち上がろうとしたが、ひどい目眩に思わず三蔵の肩に身体を預けてしまった。
目を閉じて深く息をつきながらしがみつく僕の背を、三蔵の温かい腕が支える。なんとか息を整えて顔を上げると、僕が触ったせいで泥で無残に汚れてしまった法衣が目に入った。そのことが急に怖ろしくなって、僕は咄嗟に三蔵から身を離した。
その拍子に三蔵の背中越しに視線を向けた僕は、息をのんで固まった。
「ご、じょ…う」
僕らからほんの数歩の場所で、悟浄は雨に濡れて立っていた。
茫然と立ちすくむ悟浄は、なぜかとても遠いところにいる人のようで。僕の声に応えるように向けられた瞳は、まるで…泣いているようにみえた。







家に帰っても、悟浄は一言も口をきかなかった。
きつく僕の腕を掴んだまま風呂場へ連れていくと、勢いよくシャワーの水栓を捻った。熱い湯が出るまでの間も、悟浄は降り注ぐ水を睨みつけたまま目を合わせてくれない。その硬い横顔には拒絶するような色が浮かんでいて、僕は言葉をかけることもできずに俯いた。
狭い風呂場に湯気が立ち込めると、悟浄は僕の頭の上から湯を浴びせ髪に入り込んだ泥を落としていった。怒っている様子なのに触れる掌は優しくて、どうしようもなく胸が痛んだ
悟浄は僕の髪から頬にかけてこびりついた泥を、丁寧に流していく。ぐっしょりと湿って身体に貼りつく僕のシャツに手をかけようとして何かに気付いたように動きを止めると、悟浄はシャワーヘッドを僕に押し付けた。
「しっかり温まるまで、出てくんな」
「あなたも…」
ずぶぬれのまま浴室から出て行こうとする悟浄の腕に手を伸ばしたが、届く前にドアの外に出てしまう。
「オレは濡れるの慣れてるから、平気」
やっといつものように笑ってくれると、悟浄はパタンとドアを閉めた。

僕は纏わりつくシャツやジーンズを時間をかけてのろのろと脱ぎ捨てて、悟浄に言われたとおりにシャワーを浴びた。ちゃんと石鹸も使って、服を通して身体にまで染み込んでしまったような泥を落としてゆく。
あぁ、でも。降り注ぐ温かい水までもが、まるで雨のようで――僕の思考は、雨の中へ容易く引き戻されてしまう。
僕らを見た時に悟浄が浮かべた表情が、何度も頭の中によみがえった。
きっと急いで帰ってきたのだろう。傘もささずに濡れそぼった悟浄は、まるで闇の中から浮かび上がっているように見えた。
その視線は惨めに立ちすくむ僕を捉え、それから僕を支える三蔵に移り、何かを耐えるように一瞬きつく目を閉じた。
ふりしきる雨ではっきりとはわからなかったけれど、閉ざされる直前に紅い瞳を揺らしていた感情は、怒りと…それから、哀しみ、だったのだろうか?
彼がそんな顔を見せたのは一瞬のことで、すぐに言葉少なに三蔵から僕を引き取ると、足元の覚束ない僕を抱えるようにしてこの家に戻ってきた。
三蔵はここに寄ることなく帰ってしまった。別れ際何か二人で話をしていたようだったが、僕には聞こえなった。

多分僕は、悟浄を怒らせ失望させてしまった。
あの事件の傷が完全に癒えることなどないけれど、この家で過ごす日々は穏やかな安らぎに満ちていて、僕に前へ向かって歩みだすだけの強さを与えてくれた。それはいつも何も言わずに、さり気なく見守ってくれていた悟浄のおかげだ。はっきりと口にしたことはないけれど、悟浄はきっと僕の変化に気付いていたし、それを喜んでくれていたはずなのに。
僕は彼と共に過ごすことで育んできた信頼を裏切った。
三蔵にもひどい迷惑をかけてしまった。泥に塗れても、僕とは違って決して汚れることがない、気高い人。雨の中昂然と顔を上げ去ってゆく後姿を思い出した。それを見つめる悟浄の横顔も―。

「!」

その時突然、悟浄が三蔵の依頼を受け始めた理由も、僕への態度が変わった理由もわかった気がした。
僕らを見て、切なく揺れたあの瞳の意味も。

そうか。
悟浄は、三蔵のことが――。
そうか、そうだったんだ。
妙に腑に落ちて小さく笑って、僕はよろよろとタイルの上に蹲った。笑いながらぼんやりと、排水口に流れてゆく泡を眺めた。

それからふと、僕を置いて遠くへ行ってしまった女のことを想った。そんなふうに想い起こすことが暫くぶりなことに気がついて、悲しくなった。
ずっとあの人のことばかり考えていたから――。
自分の身勝手さを思い知って、もっと悲しくなった。

ごめんなさい。
もう忘れないから。絶対に、もう誰も愛さないから。
今だけは、泣くことを許して。










(2010.7.9)

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