ALL YEAR AROUND FALLING IN LOVE
2.若葉
「なあなあ、卵焼き入ってる?」
やわらかい若葉の匂い。吹き抜けてゆく爽やかな風。
「入ってますよ」
どこからか聞こえてくるミツバチの羽音。
「唐揚げは?海老フライは?」
新緑の木々のすき間から零れ落ちる、光の雨。
「たくさんありますよ。ちゃんと野菜も食べてくださいね、悟空」
それは5月のよく晴れた日曜の昼下がりの、のどかな風景。
大きなシートの上に車座になって顔を揃えているのは、坊主とサルと八戒と俺。
にこにこと微笑みながら八戒が風呂敷を広げて重箱を開けてみせると、悟空が盛大な歓声を上げて身を乗り出す。二日酔いの頭にガツンと響いた大声に顔を顰めて目の前の頭をひっぱたいても、その視線は八戒のお手製弁当に釘付けだ。
正月のお節のごとく並べられた5段の重箱の中は、色とりどりのおかずやいなりずし、果物がぎっしりとつまっている。一体何人分かと思う量だが、あっという間に悟空の腹に納まるのだ。
「おい、ビールもっと寄こせ」
最高僧は春の陽射しに不似合いなしかめっ面で、煙草の煙を吐き出している。
「はいはい。飲んでばかりいないで食べてくださいね。あ、三蔵の好きな海老マヨもありますよ」
アウトドア用の小さな皿に重箱から手際よく一品ずつ盛り付けて八戒が差し出すと、三蔵は満更じゃなさそうに頷いて受け取った。
あれこれと甲斐甲斐しく世話をやく八戒は嬉しそうだ。碧の瞳が明るい日差しを受けて少し眩しそうに細められると、その微笑みがもっと優しいものになって、つい目を奪われる。八戒の背中ごしに見える白い花の、可憐なカンジがその笑顔によく似合っていた。
花を背負って絵になる野郎なんて、そうそういねえだろうな。小さな白い花が丸く固まりのようになって枝に連なっているあの花、なんて言うんだろ?
「こでまり、ですよ」
俺の視線に気付いた八戒が、自分の肩の辺りで揺れていた白い花の塊を指先でそっとなでる。
ほら、まりみたいでしょう?と。それから小さく首をかしげて笑った。
「悟浄は何を食べますか?」
ピクニックに行きましょう、と八戒がサムいことを言い出したのは、数日前のことだった。
悟空の家庭教師から戻ってきた直後だったから、大方サルにせがまれたんだろう。鼻歌交じりに料理の本なんか捲っている八戒は、俺の返事がイエスと決めてかかっているようだった。
長安の外れにある森の中のこの小さな湖の畔はちょっとした公園になっていて、シートを広げて弁当を食ったりキャッチボールしたり、思い思いに寛いでいる 家族連れや恋人達で賑わっている。
そんな怖ろしく場違いな場所で、まるで仲良し家族のように身を寄せ合うこの状態が居心地悪くて、俺は黙々と缶ビールを流し込んでいた。迎え酒でもしなきゃとてもやってられねえと思いながら、隣で和気藹々と弁当をつつく3人の様子を眺めている。
こいつら、花見で味をしめたに違いない。八戒の料理は美味いからな。
しかし花見は年に一度だから仕方がないとして、何でそう何度もこいつらと青空の下で健全にメシを食わなきゃなんねーのか?
今日は適当に誤魔化してすっぽかすつもりだったのに、“欠席は許しませんよ”という言葉と有無を言わせぬキレイな笑顔で、八戒はベッドの中で寝こけていた俺を引きずってきた。明け方まで飲んで寝不足と二日酔いの身には、真っ白い真昼の日差しは少々厳しい。
「大丈夫ですか?悟浄。夕べはだいぶ遅かったみたいですけど…」
いつまでたってもテンションが上がらない俺に、八戒は瞳を曇らせた。
「二日酔いなんて、河童のくせに生意気だ」
「水に入ったら、すっきりするんじゃねえの?」
好き勝手ぬかすやつらの相手をする気にもなれなくてぼんやりと煙を吐き出す俺に、八戒は悟空の魔の手から逃れた料理の中から消化のよさそうなものを取り分けた皿を差し出しながらにっこり笑った。
「めずらしく、フラれたとか?」
「まっさかぁ。オレ様を誰だと思ってんの?」
ニヤリと余裕で微笑みを返しながらも内心は冷や汗。なんでこいつはこうも勘がいいのかね?
サイアクだった夕べの出来事が頭を過ぎって思わず口をつきそうになるため息を飲み込むと、食欲ねえからと言い訳して立ち上がる。
それでもちゃっかりビールだけは一本頂戴して、俺は一家団欒から逃げ出した。
東の方からやってきて今夜はこの街に泊まるのだという女と知り合ったのは、いつもはあまり足を向けない酒場だった。
すごい美人というわけじゃなかったけど、濡れたような黒い髪の艶やかさに惹かれて話しかけたらいい感じで盛り上がって、数軒ハシゴして気がつくと俺たちは女の宿にいた 。
艶かしく微笑んで、女は慣れた風に自分から白い肌をさらした。ベッドに散った長い髪。柔らかく丸みを帯びたラインと人工的に色づいた唇。それは相手は違えど馴染みのあるもので、いつものように本能に忠実にコトに及んじまえばよかったのに、その時俺はつまらないことに気がついた。
ベッドの上で覗き込んだ女の瞳は、深い湖の底のような緑色をしていた。それまでてっきり、髪と同じ黒い瞳だと思っていたのに。
あぁ、この女、八戒に似てるな。そう思ったら、もうダメだった。
やっぱ帰るわ、急用思い出した、と立ち上がった俺は、盛大な罵詈雑言を投げつけられて逃げるように部屋を出た。そのまま家に帰る気になれなくて、空が白み始めるまで一人で飲んで、家に戻ってベッドへ直行だ。
あんなことは、初めて女を抱いた時以来だ。
その年上の女がお袋に似ていることに気がついて怖気づいた。まぁそん時は、有無を言わせずって感じで食われちまったけど。
本当に欲しいものは決して手に入らないから、せめてマガイモノでもという醜い本音が顔を覗かせるんだろうか。
そういうのはとっくに卒業したと思っていたのに。
いい加減進歩のない自分に腹が立つとか情けないとかいうよりも、見えないようにしっかりと覆っていた自分の中のひどく脆いものが引きずり出されたみたいで、俺はどっぷり落ち込んでた。
だってあんなきれいなヤツ、手に入るわけねぇだろ。あいつの胸に住み着いているのは、きっと今でも、魂の片割れだというねーちゃんだけだ。
俺は足下にため息を一つ落として振り返った。
八戒は悟空に水筒の水を注いでやっているところだった。それから少しぼんやりした様子で木立の新緑を見上げている。
なんとか気を惹こうとあれやこれやとねだっている悟空の意図にも、気持ち悪いほど穏やかな視線を向けている三蔵の思いにも気付いていない。
まぁ悟空の場合はガキが優しいお兄さんに懐いてるだけかもしんねぇが、三蔵はあれで惚れてるんじゃなきゃ、俺の目は節穴だ。
こうして見ているとどこから見ても穏やかな優しい好青年で、とてもあの身に暗い激情と深い罪を抱え込んでいるようには見えない。
木々の緑に視線を巡らせていた八戒は、俺の視線を捉えると一際深く微笑んでから目を伏せた。
その笑顔はきれいなのに妙に寂しそうで、胸が疼いた。
ブラブラと湖の畔までやってくると、俺は重く靄がかかったような頭で辺りを見回した。
新緑の木立に囲まれた水面は、降り注ぐ陽射しを浴びて眩しいくらいに光っている。さほど大きくない湖の向こう岸にはボート乗り場があって、一艘のボートがカップルをのせてゆっくりと水面に進み出ていくところだった。辺りでは家族連れや恋人たちが、ボートの上で幸せそうに笑っている。
俺は座り込んで新しいタバコに火をつけながら、そういえばボートになんか乗ったコトがねえなあと考えた。俺の付き合う女たちが好む化粧と香水とタバコのにおいは、こんな場所には不似合いだ。
八戒はどうだろう?あいつはアレに乗ったことがあるのかな?
穏やかに微笑みあいながら最愛の女と静かに湖面を進んでいく八戒の姿を思い描いてみた。あいつなら似合いそうだと考えて、妙に安心する自分に笑ってしまう。あんな温かくて安らぎに満ちた乗り物は、俺には遠いものだ。
ふと思い出して缶ビールのプルトップを引き上げた。景気のいい音と一緒に泡が零れ出て指を濡らすのを眺めながら、無性に八戒の笑顔を見てみたいと思った。穏やかで安らぎに満ちた、愛しい人だけに見せる笑顔を。
ぼんやりとビールを啜っていると背後から景気の悪い足音が近づいてきて、隣に仏頂面の坊主が座り込んだ。
胡坐をかいた三蔵は煙草を銜えながら当然のように掌を差し出してきやがるから、舌打ちと一緒にライターを投げつけた。ついでに前から気になっていたことを聞いてみる。
「なんであいつ、仕事なんて始めたんだ?」
寺に呼ばれてこなしている三蔵の仕事の手伝いと悟空の家庭教師だけでも八戒の生活は結構忙しかったはずだ。わざわざ夜の時間の塾の仕事を見つけてきた時にはちょっと驚いた。
「お前のところを早く出てえんだそうだ。赤ゴキブリのうろうろしてる台所で、主夫やってんのにうんざりしてるんだろ」
「誰がゴキブリだって?」
軽口を返しながら、あぁ、やっぱり、と苦く笑う。こんな生活がいつまでも続くはずがない。傷が癒えた今、八戒がその気になったら野郎二人の同居生活なんていつ終わりになってもおかしくない。
三蔵はつまらなそうにタバコの煙を吐き出した。
「まぁ、早いところ自立してえんだろ。寺に来るように声をかけたが、断りやがった」
「フラれちゃったのね」
「うるせぇよ、死ぬか?」
お決まりのように取り出した拳銃が日差しを浴びて鈍く光り、少し離れた場所でシートを広げて弁当を食っていた家族が怯えた目でコッチを見た。
全くこいつもこの場所に不似合いだ。
「ワル目立ちしてるぜ、三蔵サマ」
「てめえに言われたくねえな」
「こんな場所で、なんで法衣よ?」
「そのチンピラみたいな格好よりマシだ」
これは正装だぞ、と呟いて三蔵は銃をしまった。
「こんな場所が似合うのは、あいつらだけだろ」
三蔵の視線の先で、八戒と悟空は仲がいい兄弟みたいにキャーキャーいいながらバドミントンを始めている。
白い羽を追う八戒の無邪気な表情に、ふと数週間前の夜のことを思い出した。
さくらの花びらを髪にのせて俺を見上げた八戒は、まるで桜そのものみたいに儚くみえた。
短い命を鮮やかに咲ききって散らしてゆく花のように、きれいで哀しくて。それでいて少し酔って潤んだ瞳は艶かしい熱を宿していて。
心から、欲しいと思った。こいつをこの腕に抱きしめたいと。
でもその瞬間頭に浮かんだのは、ガキの頃に差し出した腕を手酷く振り払われた記憶。汚らわしい、忌まわしいと詰る、大好きだった女の泣き顔。
俺は八戒の髪に触れるだけで精一杯で。あとはふざけて誤魔化すしかなかった。
求めることなんてできやしない。この腕に抱きしめれば、あの笑顔もこの温かでやわらかい時間も壊してしまうだろう。
八戒の心がねーちゃんで占められていても、痛みが癒えていつか誰かのものになったとしても、あいつが幸せな笑顔を見せてくれたら、それでいい。
例えばそれが、隣に並ぶこの不機嫌顔の男に向けられるものであっても。
「なぁ、この間の話だけどサ」
「あ?」
「やっぱやってやるから、詳しいこと教えろ」
お前一人で仕事をしないかと三蔵に切り出されたのは、花見の時だった。
遠方の村を荒らしている盗賊たちを捕まえるという荒くれ者相手の仕事らしい。腕っ節は必要だが頭は要らんからお前一人で十分だというふざけた物言いに、その時は誰がやるかとつっぱねたけど。
今は少し八戒と離れた方がいいのかもしれない。頭を冷やすにはいい機会だ。
あと数ヶ月かもしれないあいつとの生活に慣れすぎないように。これ以上余計なコトを望んでしまわないように。
同居を始めた頃は雨が降るとぼんやりしていることが多かった八戒も、最近はそんな様子も見せなくなったし。
「!」
突然突き刺さるような視線を感じて息を飲んだ。
三蔵がじっと俺の顔を見据えている。それは探るとか怪しむとかいう生半可なものじゃなく、いきなり胸の中に分け入ってくるような、強烈な眼差し。俺はコイツのこういう所が苦手だ。
「よろしく頼むわ」
笑って肩を叩き、視線を断ち切って立ち上がる。
「明日、寺に来い」
三蔵も立ち上がると、不機嫌そうに吐き捨てて背を向けた。
「さーて…そろそろ消えっか」
飲みかけの缶ビールに煙草を突っ込んで歩き出すと、
「悟浄っ、帰んのかよー?」
責めるような響きの悟空の声が追いかけてきた。
振り向くと、怒った顔でラケットを振り回している悟空の姿が目に入る。
「オレと勝負しろよ!」
「また今度な!」
大きな声で叫んで右手を上げると、八戒の顔は見ないようにして背を向けた。
やわらかい風がすり抜けて、頭上の若葉を揺らしてゆく。
穏やかな陽射しも八戒の笑顔も、なぜだか今日は胸が痛い。
「やっぱ、ちょっと飲みすぎたな」
そう呟きながらも懲りもせず慣れた澱みへ向かっている自分に苦笑して、俺は眩しく晴れた空を仰いだ。