ALL YEAR AROUND FALLING IN LOVE







1.さくら




数ヶ月前に見つけた塾のバイトは、終わる時間が随分と遅い。
長安に近いせいか、この辺りには僕が馴染みのあった小さな塾などではなく商業ベースの塾というものが幾つかあって、ささやかな社会復帰の第一歩に僕はその中の一つに職を得た。
感心することに今時の子供は遅くまで勉強熱心だ。というか、今時の親が教育熱心なんだろうけど。
腕白盛りの子供たちの相手はなかなかにパワーが必要で、全ての授業が終わる頃には一日の疲れも相まって、肩を落としてため息の一つも口をつく程だ。
今夜も時計は10時を回ってしまった。
早く帰って風呂で温まりたいなどと考えながら塾の玄関を抜けて数段の階段をよろよろと下りたところで、紅い髪の男に捉まった。


悟浄は玄関脇の電信柱の影で、子供を迎えに来た親のような顔をして立っていた。
僕の顔をみるなり、目を輝かせて寄ってくる。
だけど真っ赤な髪を夜風に遊ばせながらもうもうと煙を吐き出している親はあまり見たことがない。
無意識に吸殻が辺りに散らばっていないか目を落とした僕を見てニヤリと笑うと、悟浄は携帯灰皿に短くなったタバコを突っ込んだ。
はい、沙悟浄くん。よくできました。
「遊びに行こうぜ、八戒」
「遊びにって…今からですか?一体どこに行くんです?」
「公園」
まるで子供みたいなことを言いながら、悟浄は手にしているビニールの袋を広げて見せた。中には酒と肴が数種類。
そういえば、今日は酒場の常連の方たちと花見に行くと言っていたはずだけど。
疑問が顔に出ていたようで、悟浄は歩き出しながら肩をすくめる。
「ドタキャンする奴らが多くて面子が揃わなくてさぁ。結局花見はまた今度ってことになったけど、花なんかすぐに散っちまうだろ?」
大勢で賑やかに騒ぐのが好きな悟浄はちょっと残念そうだ。
「酒も肴もたっぷりあるし、二人で花見でもしようぜ」
そういいながら、悟浄は先に立って歩いていく。
「最近のガキはこんな時間までベンキョーすんのか?早く帰って寝ろっつーの」
「まぁまぁ、そのおかげで僕ら少しは潤っているんですから」
そうだ。そのおかげで少しは蓄えもできた。もう少ししたら、あの家を出て行けるくらいになるだろう。
いつまでもこの人の優しさに甘えてばかりもいられないのだから。

犬に吠えられたりのら猫が暗闇で目を光らせるのを目にして驚いたりする度に、疲れた気分はいつの間にかちょっとした夜の冒険を楽しむ気持ちに変わっていた。
悟浄は迷うことなく僕の知らない道を右へ左へ折れながら、入り組んだ路地をどんどん奥へと入っていく。
もう一人ではもとの道に戻れないかもしれないと思いはじめた頃行き着いたのは、静まり返った住宅街の中の公園だった。
小さな敷地にブランコと滑り台と砂場ぐらいしかないその公園は、周囲をぐるりと桜の木に囲まれている。
ブランコが風に微かに揺れているだけで、夜の公園には全く人気がなかった。
真ん中に一つだけ立っている街灯は、公園の隅の方まで届かない。あたりにはぼんやりと闇がにじんでいる。
その淡い光に向かって、闇の中から空を覆うように夜の桜が白く浮かび上がっていた。
少しだけ盛りを過ぎた花は緩い風に惜しげもなくその花びらを散らしている。黒く見える地面は、そろそろ花びらで埋まりそうだった。
公園の真ん中に立つとどちらを向いても白い花に埋め尽くされていて、まるで別の世界に迷い込んでしまったようだ。
「おい、こっちこっち」
悟浄は二つ並んだブランコの一つに陣どって手招きしている。
美しい桜にも僕のような感慨はないようだ。
「いい場所ですね。ここでお花見の予定だったんですか?」
空いているブランコに腰を下ろしながら尋ねると、悟浄は首を振りながらこの辺りでは花見スポットとして知られている川沿いの堤の名を上げた。
「ここは超穴場なんだぜ。前に偶然見つけて、桜が咲いたらお前と来ようと思ってたんだ」
僕の胸が音をたてるようなことをさらりと口にする。
「昼間は近所のおばちゃんやガキでいっぱいだったんだけどさ、これくらい遅いとさすがに誰もいねぇな」
それは昼間にわざわざここまで足を運んだということなのだろうか。予定していた花見が流れて、気まぐれで僕を誘ってくれたんじゃないのだろうか。
ごそごそと袋の中をのぞき込む横顔を見ながら、期待させるようなことを口にする悟浄を少し恨めしく思った。
誤解するな。この人は誰にでも優しいのだから。いつか離れる人なんだから。

悟浄が手渡してくれたビールで乾杯をすると、僕は一気に半分程飲み干した。
温くなったビールが喉を滑り落ちていく。授業で数時間喋り続けた喉にしみてちょっとむせると、悟浄は笑いながらつまみの袋を破って差し出した。
つまみは裂きイカ、せんべい、ナッツにチーズ。それに焼き鳥缶まであった。
ブランコの右と左でやり取りしながらつまんでは飲み、飲んではつまんでいたが、仕舞いには面倒になって地面に置いて、二人で屈みこんで交互に手を伸ばした。
袋の中のビールを飲み尽くすと、底の方からカップ酒が現れた。表面にきれいな桜のイラストがプリントされている。
「へぇ、今はこんな絵がついてるんだ」
「季節や地方で、いろいろなものが出ているそうですよ」
「集めてみたら?面白そうじゃん」
僕は曖昧に笑ってキャップを開けた。水のようにごくごくと流し込むと、悟浄は呆れたように吹き出した。
何も集めたりしませんよ。あの家に自分のモノを増やしたくないんです。いつか出て行くあの家に。
本当はあなたとの思い出も、増やしたくないのだけれど。
胸の中で呟いて掌に目を落とすと、酒の中に花びらが一枚浮かんでいる。悟浄の酒にも薄桃色の欠片が一枚。
僕らはそっと笑いあうと、花びらごと春の印まで飲み干した。

昼でも夜でも。見ている者がいてもいなくても。桜は音もなく散っている。
誰も知らなくても、胸の中でつのる想いがあるように。
僕らは思いっきりブランコを漕いで重そうに花の房をぶらさげている枝ににぶつかりそうになったり、勢いをつけて飛び降りたり。子供のようにはしゃいで笑い声を上げては、シーっと息を潜めて辺りを見回す。
“大丈夫。誰も起きてきませんよ。” “じゃあ、もいっかい!” “ブランコが壊れてしまいますよ。”
酔いが回り始めて自然に笑いが込み上げる。
今年の花見は今夜で三度目だ。
一度目は三蔵と悟空と四人で楽しく賑やかに。二度目は塾の仲間たちと節度をもって穏やかに。
でも今夜の花見が一番、胸が高鳴っている。
この人とここにいられることが、ただ嬉しい。それだけで十分だ。
この想いは伝わらなくても構わないから。もう少しだけ、この人と、この場所で―。

「いい所だろ?ここ」
「ええ。本当に…きれいです」
「来年もこような」
「…」
返す言葉につまったその時、突然強い風が吹きぬけた。
たくさんの花びらが引きちぎられて、くるくると螺旋を描きながら闇のなかに舞い上がる。白い欠片が雪のように降り注いで、僕は一瞬目を伏せた。
ふと、僕の右側で小さく鎖が鳴る音がして。
気がつくと目の前に悟浄が立っている。
僕を見下ろす長い髪のあちこちに花びらが絡み付いて、とてもきれいだ。
あぁ、腕を伸ばしてあの髪に触れたら。僕のものにできたらいいのに。
ブランコに座ったままバカみたいにじっと見上げている僕の方に長い指が伸びてきて、そっと前髪に触れた。
「おまえ…花だらけ」
きれいな指が花びらを摘んで、ハラと落として。
それから、ふわりと撫でられる。
「!」
一瞬息が止まって、悟浄に聞こえるんじゃないかと思うほどに胸が大きく音をたてた。
固まる僕にニッと笑いかけると、悟浄はいきなり僕の首に腕を回してヘッドロックをかけてきた。
僕が低い位置なのをいいことに、がっちりと首筋を押さえ付けてグシャグシャと髪の毛をかき回す。抱きしめられるように背中ごと腕を回されて、僕は身動きができない。
「なっ、何するんですかっ!」
「おまえがぼんやりしてっからだろ。酔ったのかぁ?」
「酔っているのはあなたでしょうが!」
悟浄は笑いながらしばらくの間僕の髪を弄っていたが、いきなり僕を解放すると散らかしたゴミを手早くビニール袋に突っ込んで、ボサボサ頭に手をやる僕に片目を瞑ってみせた。
「続きは来年にして、今夜は帰ろうぜ」
「何言ってるんですか!今年のうちにしっかりお返ししますよ!」
勢いよく立ち上がって花びらだらけの紅い髪に手を伸ばしたら、僅かの距離で掴み損ねた。
「置いてくぞ!」
悟浄は笑いながら走り出す。
「待って下さい!」
逃すものか。借りは返しますよ。来年なんて、どこにいるかもわからないのに。
あぁでも、ここでまた桜を見ることができたら。この人の傍にいられたらいいのに。
こんなに脆く揺らいでしまう僕の決意は、夜風にのって散る桜の潔さに比べたら情けないほどみっともなくて。
闇に揺れる紅を追ってさくらの夜を駆け抜けながら、それでも僕は幸せだった。






(2010.4.7)

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