missing you
2.三蔵
躾の行き届いた仲居に案内されたその部屋は、予想以上に申し分ない部屋だった。
部屋は主室と小さな廊下で仕切られていて、主室よりは少し狭い寝室がついている。その廊下を奥につきあたって折れた所が、浴室だった。清潔な洗い場の奥には庭へ通じる硝子戸が閉じている。
三蔵は意匠を凝らした硝子戸を引くと、黒御影の床を踏みしめながら庭へと進んだ。ひんやりとした感触が素足に心地よい。
大きな石を組んで作った趣のある浴槽の前で立ち止まると、三蔵は手桶で湯を掬いザブリと肩からかけた。
白い湯気の中に見えている八戒のすらりとした背中が、弾かれたように振り返る。
「な、な、なんで入ってくるんですかっ?」
「温泉に来て風呂に入るのは当然だろう」
「何も一緒じゃなくても…」
おかしな程慌てている八戒にはお構いなしに、三蔵は八戒と並んで湯につかった。
夕暮れの冷えた空気の中で、熱すぎるくらいの湯の刺激が心地よい。
八戒はきまり悪そうに視線を逸らすと、背にしていた大きな石にもたれて空を仰いだ。
どうせ河童のことでも考えていたのだろう。
三蔵は紅に染まり始めた空を見上げると、深く息を吐き出した。
湯の中に身体中の疲れが溶け出してゆくようだ。こんなにゆっくりした気分になったのは、いつ以来だろうか。
「こんなことにつきあわせてしまって、すみません」
三蔵がため息をついたと思ったのだろうか、八戒は瞳を曇らせて三蔵をみつめた。
「つきあわせてんのは、こっちだろ」
八戒は頼りない微笑みを浮かべた。
「悟空にも悪かったですね」
「気にすることはねぇさ」
今頃は八戒のカレーを腹いっぱい食って、さぞかしご機嫌なことだろう。対照的に悟浄はこの上なく不機嫌だろうが。
だいたいこんなことになったのは、悟空のせいなのだ。
昨日寺にやってきた八戒が、いきなり「温泉にいきませんか?」と言いだしたのがコトの始まりだった。
三蔵と悟空に招待券を手渡して、「明日の夜の宿泊です。もう予約してありますから、ぜひ二人で行ってきてください」と微笑んだ八戒は、どことなく沈んで見えた。
いきなり明日というのにも驚いたが、悟空が頑固に三蔵と八戒で行ってこいと言い張ったのにも驚いた。
ちょうど厄介な案件が終わったばかりで、なぜか今日だけ仕事の予定が入っていなかったのが運のつき。八戒の寂しげな表情と悟空の熱意に半ば押し切られるようにやってきてしまったのだったが。
聞けばこの温泉は、商店街の福引で八戒が引き当てたものらしい。アイスを食えば当たり棒、自販機を押せば必ずジュースを二本持ち帰る。こんな男に福引きさせたら特賞に決まっている。
「利用期限をうっかり忘れてしまっていて、慌てて問い合わせたら今夜しか空きがなかったんです」
ここに来る途中にそう打ち明けた八戒は、申し訳なさそうに目を伏せた。なんともはた迷惑な話だ。
温泉行きが決まった時は嬉しそうな表情を見せていたが、今、庭の片隅に植えられたイロハモミジの赤にぼんやりと目をやる八戒は、ずいぶんと気落ちしているように見える。
やはり悟浄と来るつもりだったのだろう。アイツの代わりだと思うと気分が悪いが、八戒を放っておけない自分にもまた腹がたった。
横目で八戒の様子を眺めると、熱めの湯でほんのり桜色に上気した頬が幼い子供のようで微笑ましい。
「はぁ…」
そのくせ無意識に口をつくため息は妙に色っぽくて、三蔵は落ち着かない心地だった。
確かに男にしてはきれいな顔をしているかもしれない。物腰は穏やかだし、よく気がきくし、笑った顔なんか見惚れるほどだし…。
だが、コイツは男だ。それ以前に猪八戒だ。こんな男に惚れたのはれたの、言うヤツの気がしれない。いや、自分の場合は男も女も関係ないが。
「お先に…」
三蔵の視線に気づいた八戒が、気まずそうに立ち上がった。だが長く湯に浸かりすぎて逆上せたのか、その痩身はふらりとよろめき傾いた。
「っ!」
慌てて立ち上がった三蔵が肩を支えると、きれいな指が三蔵の腕に縋りついてくる。しっとりと濡れた黒髪が肩先をくすぐって少しの間三蔵の首筋にもたれるようにして止まった後、八戒は弾かれたように身を離した。
「すっ、すみません!…僕…っ」
裸の男二人が露天風呂で抱き合うというサムい状況に先に気づいたのは、八戒だった。
眉を顰めた三蔵の前で、八戒は潤んだ瞳を驚きに見開いて後ずさった。まるでこの後に何かイカガワシイことでも起きるかのように、うろたえ怯えているように見える。
「安心しろ。お前に勃つわけねぇだろう」
なぜか少し傷ついたような顔をする八戒に背を向けて再び湯に浸かると、三蔵は小さく舌打ちして群青へと移り変わってゆく空を見上げた。
「わぁ…すごくきれいですね」
仲居が絶妙のタイミングで新たな皿を並べる度に、さっきから八戒は感嘆の声を上げている。
懐石が自慢の宿というだけあって、素材の持ち味を活かしながら彩り鮮やかに盛り付けられた料理は、舌だけでなく目も充分に楽しませてくれる。銀杏、茄子、きのこ、いくら、柚子など秋の色に溢れた食材に料理人の技を尽くした繊細な細工を施して盛り付けられた八寸として供された皿に、八戒は興味をそそられているようだった。
「おいしいですねぇ、三蔵」
花が綻ぶようにふわりと微笑む姿を見ていると、なぜかこっちまで胸のあたりが温かくなってくる。
きっと悟浄もこの笑顔に絆されるのだろう、などと少し酔ってきた頭で考えた。
食事が済むと二人で広縁に座り込み、庭の隅に配された灯篭の灯りで趣深く浮かび上がる庭を眺めながら日本酒を飲んだ。昼間は鮮やかに存在を主張していた楓や桂の赤や黄色も、今はぼんやりと闇の中に溶け込んで眠っているようだ。暗がりから密やかに山茶花の香りが漂ってくる。中空にかかる少し欠けた月が、静かに二人を見下ろしていた。
肌寒いくらいの夜風も気にならない様子で、八戒はぼんやりと月を見上げながら時折手にした杯を口に運んでいる。
三蔵は静寂を楽しみながら、酔った素振りも見せない八戒に感心半分呆れ半分で目をやった。
その時、ふと八戒が呟いた。
「僕って…やっぱり色気がないですか?」
三蔵は手にした杯を取り落とした。含んだ酒を吹きそうになって、激しく咳き込む。
「な…なに言ってんだっ?」
「だって勃つはずないって…」
風呂での三蔵の言葉に拘っているらしい。
「た、勃って欲しいのか?」
妙に裏返る声が情けない。
「そんなはずないでしょう」
呆れたように即答されて、一気に力が抜けた。一体なんだっていうんだ。
「聞いてくださいよ、三蔵」
八戒は真剣な表情で三蔵ににじり寄った。
「最近悟浄ったら朝帰りばかりで、顔を合わせる時間もないんですよ。この間だって僕が紅葉を見に行きましょうと誘っても、全く興味がないみたいで。そのくせ鼻歌なんか歌いながら、きれいなおねえさんに会いに行くんです。そりゃあ、女好きはあの人の病気みたいなものですから、仕方ないというか、諦めているというか。あの通り優しい人ですし女の人に好かれるのもよくわかるし、そういう悟浄が好きなんですけどね…」
これは悟浄に対する不満なのか愚痴なのか惚気なのか?さらににじり寄ってくる八戒に、三蔵は身を引いた。
「あの人はもともと色っぽい女の人が好きなんですよ。僕じゃ触っても柔らかくもないし、どう頑張っても胸はないですし、敵うはずないでしょう」
そういって八戒は、悲しそうに自分の胸の辺りを見下ろした。
普段から酒に強いし酔ったところを見たことがなかったからうっかりしていたが、よく考えると今夜の八戒は、ものすごく速いペースで飲んでいたんじゃなかろうか?
「どう思いますか?三蔵…」
酔いが回ってきたのだろうか。少し呂律が危い八戒は、目元をほんのりと赤く染めながら三蔵に目を向けた。
縋るような表情で熱く見つめられて、おかしな気分になってくる。
マズイ…これは、河童を笑えないかもしれない。
浴衣の襟元からのびる細い項や、胸の合わせ目からのぞく白い肌に目を奪われる。着慣れないと動きを気にしていたが、今夜の八戒の浴衣姿は、そこらの女共よりも数倍色っぽい。
三蔵は焦りながら、立ち上がった。
「知るかっ、そんなこと!てめぇは飲みすぎだっ、早く寝ろ!」
奥の部屋への襖を開けると、布団が二組やけにぴったりと並べて敷いてある。
その微妙な距離に焦りながら振り返ると、八戒は嬉しそうに微笑みながら怪しい足取りで寄ってきた。
「上げ膳据え膳ですよ〜最高です…」
主婦臭いことを呟きながら、さっさと一枚の布団にもぐりこんで目を閉じる。数秒後に聞こえてきた穏やかな寝息を耳にして、三蔵は大きなため息をついた。
時折ぼんやりと聞こえていた物音や人の気配も絶え、月が西へ傾いた頃。
「くそっ…眠れねぇ」
三蔵は布団の中で小さく舌打ちすると、寝返りをうった。隣の布団では、八戒が穏やかな顔を見せて眠っている。
八戒がさっさと床に就いた後、三蔵は急激に襲ってきた疲れを癒すべくしばらく一人で月見酒を楽しんだ。夜も更けて穏やかな眠気の訪れを感じて布団に入ったのだが。少々飲みすぎたせいだろうか、横になった途端に眠気は何処かへ去ってしまい、時間がたつほどに頭がさえてくる。三蔵は暗い天井を睨みつけて、大きく息を吐き出した。
隣で眠っている八戒の存在が気になって仕方がなかった。小さく灯りを落とした薄闇の中で八戒の規則正しい呼吸を聞いていると、露天風呂で腕の中に抱きしめた滑らかな肌の感触が蘇ってくる。確かな強さでこの腕を掴んだ、白いきれいな掌。あり得ないほど間近で感じた息遣いと黒髪の甘い匂い。向けられた濡れた瞳――。
三蔵はガバッと起き上がり、その勢いで枕が飛んだ。身体中に感じる熱を持て余しがしがしと頭をかきながら枕を拾うと、そっと隣の布団に目をやった。
「ん…」
三蔵の気配に小さく寝返りをした八戒の、浴衣の合わせ目が少しはだけてきれいな鎖骨が露になる。いつの間にか開いていた雪見障子の間から、滑らかな肌の上に銀の光が降り注ぐ。月の光に照らされて穏やかに眠る八戒の姿は、清冽なのに妖しくて、ますます奇妙な気分をかきたてられた。
だがここで道を踏み外す気は毛頭ないのだ。あの馬鹿の二の舞も、ましてや競い合うのもごめんだ。
なんてったって、勝負は目に見えているのだから。
それでもそのあどけないくせにどこか惑わすような寝顔から目が離せないでいると、目の前の形のよい唇が、小さく震えて言葉を紡いだ。
それは――
「ごじょう」
愛しげに呟いて、幸せそうに笑みを浮かべる。
三蔵は思わず込み上げた笑いに、喉を鳴らした。
こんなに想われているとは、あの男は思ってもいるまい。
馬鹿な男だ。
だが馬鹿なのは果たして、アイツだけだろうか…。
三蔵はふと浮かんだ思いつきに口元を引き上げると、穏やかに眠る八戒にそっと身を寄せた。