夜明け前
4.
“囚人が暴れている。”
執務中、取り乱した声の僧に呼ばれ、三蔵は不機嫌に眉間にしわをよせた。
素早く重要な書類を机の引き出しに放り込み、鍵をかけて立ち上がる。
もやもやとした不快感を胃の辺りに感じながらも、この寺院内でもあまり僧達の立ち入らない一角へ向かう足取りは自然と早まった。
油断していた。昨日はそんな素振りを微塵も見せなかった男の諦めたような微笑みを思い出して、三蔵は舌打ちをした。
頑強な白い石を壁に巡らせた部屋が並ぶ一角に立ち入ると、心持ち空気が冷えた気がする。
ここには反省と自戒が必要な者が他の者から隔離されて生活するための部屋があった。
有り体に言えば監禁部屋だ。
三蔵はある部屋の前で足を止めると、ノックすることなく扉を開けた。 いきなり湿った雨の匂いが纏わりついてくる。部屋の様子は昨日訪れた時とは一変していた。
格子を廻らせた窓ガラスは割られ、床には破片が散乱していた。
申し訳程度の家具はなぎ倒され、壊れているものもある。 狭い部屋の大部分を占める簡素なベッドの上の敷布は乱れ、小さな血痕が飛び散っている。よく見ると周囲の壁には拳を打ちつけたような血の跡もあった。
割れた窓の隙間から入り込んでくる雨の音が、惨状とは不似合いなほど密やかに部屋の中を満たしている。
「何だ、このザマは?」
部屋の中央に、三蔵がこの部屋を与えた男と、距離を置いて怯えた顔の子坊主が立ちすくんでいた。
三蔵の顔を見てほっとしたのか泣き出しそうな表情を見せる子坊主は救急箱らしきものを手にしてしたが、そんな簡易なものでは役に立ちそうにない。
「医師を呼んでこい」
三蔵の鋭い声に、小坊主は弾かれた様に部屋の外へと走りでていった。
三蔵は、血の気の失せた白い顔で佇む男を眺めた。
男は血が滴る自分の両手を食い入る様に見つめている。
その掌は何か所か深く切れ、ガラスの破片が刺さっているようだ。
身につけた白いシャツは所々血で染まり、はだけた胸元から覗く肌にもガラスで切った傷が見える。
先程から感じる不快感がさらに強まるのを押さえるように、三蔵は懐から煙草を取り出した。
男は三蔵の気配にも無関心にひたすら己の掌を見つめ続ける。
「随分熱心だな。何が見えるんだ?」
三蔵が煙と一緒に皮肉を混ぜた声を吐き出すと、男は初めてその存在に気づいたように顔を上げた。
どこか遠くに心を彷徨わせている様な危うげな瞳で、男はゆっくりと三蔵に視線を向けた。
「この手を染めた血はこれじゃない…。もっと…きれいな…」
男が一瞬笑ったように見えて、三蔵は目を瞠った。
男が自らの瞳を傷つけた瞬間に浮かべた、暗い闇の色。
今その瞳に同じ色を見つけて、三蔵は心の奥底に仕舞いこんだ何かを鷲掴みにされたような衝撃を感じた。
しかし次の瞬間、男は全ての感情を押し隠すように目を伏せた。
控えめなノックの音が響き医師が入ってきた。三蔵の姿を目にして驚いたようだったが、すぐに手当に取りかかる。
三蔵は邪魔にならぬよう、壁にもたれて2本目の煙草に火をつけた。ベッドに座らされ相当痛いであろう治療に声も上げず、されるがままになっている男を観察する。
昨日三仏神によってもたらされた処分が、きっとこの醜態の原因なのだろう。
一度は生きることを受け入れたように見えたものの、恐らく実のところは死をもって罪を償うつもりでいたに違いない。自ら下すことは諦めてもいずれその身は処罰されると覚悟していたのだろうし、それがこの男にとって望ましいものだったはずだ。
だが望んだものは、与えられなかった。
“そう簡単に、楽にはなれませんね”
己に科された処罰を微動だにせず聞いていた男は、望んでいた以上に残酷なものとなったそれを嘆くでもなく喜ぶでもなく、残された目を瞑った。
次いで三蔵の脳裏には、この男が自らの瞳を抉り取った時の様子が蘇った。
深い湖のような瞳の奥底にゆらゆらと立ち上る闇の色。自らを嗤いながらも激しい怒りと絶望をたたえた眼差し。
その右眼を暗い笑みさえ浮かべて抉り取った姿を目にした瞬間、認めたくないが、自分の中でこの男に対して強い想いが生まれていた。
それは興味なんて生易しいもんじゃない。優しげな顔の下に隠れている暗い闇のカタチを暴いてみたいという、我ながら悪趣味で嗜虐的な想いだ。
思い出すだけで背筋に危険な何かが走った。そしてその想いは何事にも囚われないことを生きる有りようとする身にとって、近寄ってはいけない禁区と思われた。
だが…。
医師は治療を終えて出て行った。
部屋に二人きりになると、男は割れた窓辺に近づき何を考えてるかわからない顔をで外を眺めた。
窓枠に残った破片の隙間から、雨の音が入り込んで部屋の中を満たしている。
そういえば凶行が行われた日も、雨が降っていたと言っていただろうか。
自分の苦い記憶と重なる事実に、三蔵は小さく舌打ちをした。
目の前の男は正気と狂気の間を揺れ動いている。
いや。手を伸ばしてくる狂気という名の闇から逃げようとしながらも、一方でその手を掴みたいと願う心に流されているのだ。
三蔵はその闇に見覚えがあった。
最愛の人を無力さゆえに守れず失った、あの時。己の弱さを呪う自分の眼にも、この闇は浮かんでいた。
ぶつけようのない怒りと憎しみ、己に対する絶望。
あの方の”強くあれ”という言葉を糧として、自分は闇を撃ち殺してきた。だが果たしてこの男は、その糧となるものを持っているのだろうか。
いや、この男には何もない。まるで自分で抉った右眼の痕のように。
右眼のあった場所に巻かれた真っ白い包帯の下には、闇への入り口が穴をあけているのではないか。
三蔵の負の感情をも引きずり出して飲み込もうとする暗い闇が。
そんな非現実的な思いが一瞬三蔵の頭をかすめる。
自分を惑わす歪な感情に、三蔵は強く奥歯をかみ締めた。
雨のせいで夕暮れは早く、気がつくと部屋の中はうす闇が立ち込めていた。
三蔵は部屋を見回したが、部屋の隅に置かれていたはずのランプは無残に床に転がり割れていた。
使い物にならないガラクタはそのままに、三蔵は部屋の隅で埃をかぶっていた燭台に物いれから探しだしたろうそくを備えると、ライターで火を点けた。
ぼんやりと荒れた部屋が浮かび上がる。
ろうそくの灯りで見る男は、随分と頼りなく見えた。その頬は白く、ひどく冷たそうに見える。
「どういうつもりだ」
ゆっくりと男が振り向いた。ろうそくの灯りが揺れて、壁に写った男の影が妖しく震える。
乱れて頬にかかった長い前髪の陰から、碧の瞳が三蔵に向けられた。
目の前の三蔵ではなく、どこか遠くをみるような放心しているような瞳が、笑うようにゆっくりと細められる。
その瞬間、ぞくりとする感覚が背筋を駆け上った。
「あなたも……」
あなたも、なんだ?
雨が苦手と言いたいのか?いや。
同じものを持っていると、覚られたのかもしれない。
この男を見るたびにどこか不安な気持ちに陥り苛立つのは、自分が密かに飼い慣らしたつもりの闇を刺激するからだ。それだけではなく、呼び出そうと、引き寄せようとする。まるでその闇の色を滲ませた瞳が、三蔵の心をこじ開けて隠していた想いを抉りだそうとしているようだった。
あれから何年もたったのに。あの方が自分に残した重い荷物も何とか背負って生きてきたのに。
激しくなる雨音と目の前の瞳に浮かぶものが、一瞬にして暖かい場所を失った時間へと三蔵を連れ戻す。
甘えることを許されていた幼い自分は、その瞬間に死んだ。片時も頭から離れることなく自分を蝕んでいたその記憶の中で、何度あの心が凍った瞬間を味わったことだろう。
あの方に対する思慕、己の無力さに対する怒り、嫌悪、いいようのない絶望。いつでも取り出せるのに敢えて蓋をして胸の奥底に沈めた想い。
長い時間をかけて何とか心の中に落ち着けたものを、この男はあっさり引きずりだした。
突然三蔵は凶暴な衝動にかられ、男との間の数歩の距離をつめた。
「!」
反射的に身を引いた男の肩を掴み、強く自分の方に引きよせる。
男は驚きと痛みで歪んだ顔で三蔵の顔を見返した。
“このまま、滅茶苦茶にしてやりたい”
殺意にも似たその衝動を、三蔵は男の肩を掴んだ指を強く食い込ませることでやり過ごした。
男は痛みに顔を歪ませながらも、どこか作り物めいたあやふやな瞳を向けてくる。
三蔵は、これ程間近でこの男を見たのは初めてだということに気がついた。
初めて会った時からきれいな顔だと思っていたのだ。女のものとは違うその造作の整った顔立ちは、人の美醜に興味のない三蔵さえも心惹かれるものだった。
三蔵はこの男に二つの瞳が揃っている姿を、少しの間しか目にしていない。今ここに一つの瞳しか残されていない事を、らしくもなく惜しいことだと思った。
だが残された一つだけのものであっても、今、自分の視線より僅かに高い位置にあるその碧が底なしの闇をたたえ、暗く燃えている様を美しいと感じてしまう。
三蔵はそんな自分に舌打ちすると、包帯の巻かれた男の手首を捉え、逃がさないように強く背中で捻り上げた。
「痛っ!」
男は短い悲鳴を上げた。
「何を…っ」
疑念の声は三蔵が更に捻り上げる力を強めたことで飲み込まれ、男は強く唇を噛み締めた。
“何をするのかだと?”
そんな事は三蔵にもわからなかった。
自分はこの男を憎んでいるのか? 怖れているのか? それとも、惹かれているのか?
ただどうしようもなく、この男を、この男の持つ闇を引きずりだし壊したいという衝動を押さえ切れないのだ。
血の気の失せたなめらかな頬、食いしばり震える唇、美しい眉を顰めて三蔵を睨みつける隻眼。
男の苦痛に歪む表情全てが三蔵の嗜虐心を煽った。
“尋常じゃねぇ…”
他人にこれほど囚われたのは初めてだった。頭の中の冷静な部分が警戒音を鳴らし続けていたが、三蔵は気づかぬふりを選んだ。
「お前を俺によこせ。その闇ごと、全てだ」
三蔵は男の耳元に口を寄せると低い声で囁いた。
三蔵の仕打ちに抗がう様子をみせていた男の動きが止まった。驚いたように目を瞠り、ゆっくりと三蔵の目に視線を合わせる。その歪んだ瞳に、嘲笑に似た表情が浮かんだのは気のせいだろうか。
視線を落とすと無理な姿勢で腕を捻り上げたために、男の掌からは血が滲み白い包帯を染めていた。三蔵は口元を歪めて笑うと、その痛々しい掌を強い力で握り込んだ。
「っ!」
痛みにのけ反った男が白い首筋を曝す。三蔵はその柔らかい肌に噛み付いた。
男は歯を食いしばり震えながら、眉根を寄せている。
この男を、この闇を、壊さなければいけない。
頭の芯が痺れるような痛みを感じながら、三蔵は男の首筋に刻んだ自分の印を舐め上げた。
拘束を解き血が飛び散ったベッドの上に突き飛ばしても、男は抵抗を見せなかった。
肌蹴たシャツを奪い取り下肢を暴いてその肌に触れても、痛みと痺れで上手く動かない様子の両手は耐えるようにシーツを手繰り寄せただけだった。人ではなくなった今、この男が本気をだせば、三蔵を殺すことなど容易いことだろうに。
割れた窓から入り込む冷気のためか、理不尽な行為に対する怯えのためか、身体の下に敷きこんだ男の体は小さく震えている。だが痛々しいその姿を目にしても、三蔵の胸には憐れみや躊躇の感情は起こらなかった。むしろ雨音に混ざって、早く壊してみろという囁きが聞こえてくる。それは自分にとって都合のいい幻聴とわかっていたが、三蔵は慣らすことなく男の身体を一気に貫いた。
「――-っ!」
男は身を強張らせながら、声にならない悲鳴をあげた。大きく見開かれた隻眼から涙が零れおちる。
自分自身も痛みに耐えながら三蔵が腰を進めると、男は激痛に顔を歪ませてがくがくと震えた。
まるで与えられた罰を受けるように抗う様を見せない男に、三蔵は一瞬過去の自分を抱いているような気分に襲われて動きを止める。だがにすぐにそんな思いを振り払うように奥まで達したものを引き抜き、再び男の中へと深く沈ませた。
やがて男は、痛み以外の感覚を拾い始めたようだった。胸の尖りや腹の傷、そこに続く淡い翳りに這う三蔵の掌の動きに合わせて、苦しげに寄せられていた眉が微かな色香を孕み、噛み締めていた唇は艶かしい吐息を洩らしている。
だが白く滑らかな肌は、いくら触れても熱を生み出さなかった。
上質な薄い磁器に触れた時に似た冷たさが身体中に沁みこむようで、三蔵は歯を食いしばった。
その冷たさは胸の奥にじくじくとした痛みを引き起こす。そのくせ繋がった場所だけが信じられないほど熱くて目眩がした。
腕の中で三蔵に翻弄されるようでいて、男の隻眼は変わらずにその身に囲った闇を映し出していた。この世のものではない何かを見つめる碧で三蔵の胸に押し込めたはずの闇をも引きずり出し、もっと激しく、もっと自分を壊してほしいと強請っている。気を抜けばすぐにこの男の持つ自虐の力に囚われて、抱き壊してしまいそうだった。
三蔵は目を覚ます時するように、緩く頭を振って絡み付くような歪んだ思考を払った。
この男の闇に呑まれるわけにはいかない。自分はこの男を傷つけたいわけではないのだ。
寧ろ昨日まではこの男の生きる様を、これからを、見届けたいと思っていたはずだ。
それなのに。
こんなにも容易く囚われてしまったことに、三蔵は感慨に似た想いを感じて深く息を吐いた。
やはりこの男に、瞳を与えなくてはいけない。
このままこの空洞を放っておけば、これからもこの男はそこから闇を取り出して、自分を引き込もうとするだろう。
男の意思に関わらず、三蔵が惹かれてしまうのだ。忌々しいと思いながらも、こうして腕を伸ばしてしまったように。
「悟能」
三蔵は、男の名前を口にした。
猪悟能と呼んだことはあっても、思いをこめてその名を舌にのせたのは初めてだった。
「…っあぁ」
耳元に落とし込まれた名に応ずるように、男は小さく震えて息を吐いた。男の中の三蔵自身も締め付けられて、三蔵は眉をひそめた。
この名を呼ぶのはこれが最後だ。どのみち、この男がこの名を使い続けることはできない。
公式には、猪悟能は生き続けることはできないのだから。
「悟能」
その時。
三蔵の声に応えるように、男がゆっくりと顔を上げた。
何かを、誰かを求めるように視線を彷徨わせ、初めて自分と熱を通わせている者の存在を認めたように三蔵の視線を捉えた。
瞳の中に今までとは違う強い光が浮かび上がる。そこに先程まで纏っていた闇の気配は微塵もない。
まっすぐに向けられた瞳は、静かな湖面のように深く、透明な、碧。
シーツの上を彷徨うばかりで決して触れようとしなかった指先が、三蔵の肩に痛いほどに食い込んだ。噛み締めすぎて血の滲む唇が、何かを伝えるように開かれる。
だが次の瞬間、襲ってきた強い波に攫われるように艶かしい喘ぎを洩らすと、男は弱々しく身体を震わせて達した。
肩に触れていた手がシーツの上にすべり落ちる。
男は眠るように意識を手放した。
腕の中の男は、涙に白い頬を濡らしながらもどこか満ち足りているようにみえた。
「悟能」
三蔵は腕の中でくったりと眠る男を抱きしめながら、もう一度その名前を口にした。
自分を脅かす闇もこの男が抱きしめる狂気も、悲しみも。全て封印されることを願うように。
この世に存在しない男の名を、想いをこめて。