夜明け前





3.




三蔵は手の中に戻ってきたライターで火を点けようとしたが、抜き出した煙草はすっかり湿っていた。よく見れば一箱全てが吸える代物ではなかった。一瞬ジープに積んだ荷物の中にある買い置きを思い浮かべたが、夜明けまであと何時間あるのかと思い巡らしてうんざりした。
打ち付けた肩はなんとか動かせたが、ひどく痛んでいる。これはただの打撲ではないだろうと思うと、怪我をした自分の不甲斐なさに苛立ちがこみあげた。
三蔵が舌打ちをしてただのゴミと化した煙草を箱ごと握り潰し足元に投げ捨てると、非難の視線と一緒に八戒の腕が伸びてきて、白い掌がそれを拾った。
おかしなことにその時急に、崖から飛び降りる際に自分の肩を引き寄せた八戒の掌の感触が蘇ってきて、三蔵はますます苛立った。
「何で飛び降りた?」
八つ当たりだと思いながらも、尖った声が出てしまう。
「手が塞がっていたから、気功が撃てなかったんじゃないですか」
「手を放せばよかったじゃねぇか」
つい意地をはった言葉が口をついた。
あの場合上に登っても囲まれていたわけだから、思い切って飛び降りて正解だったのだろう。八戒が気功で衝撃を和らげたせいで、大した怪我はしていない。
だがそのせいで、こいつはひどく体力を消耗したはずだ。そうでなくても八戒は、気功を使いすぎている。いくら人間ではないとはいえ、身体に負担がないはずがないのだ。
八戒は駄々をこねる子供を見るような目で三蔵を見つめると、困ったように眉を下げた。
自分より余裕のある顔をしているが、八戒もいつもより苛立っているように見える。だがそれも無理は無いだろう。
こんな夜にこの男と二人きりになるのなら、もう少し早く決着をつけておけばよかったのだと、唐突に三蔵の胸に後悔の思いがわき上がった。
三蔵の気持ちを量ったように八戒がたたみかける。
「あなたには魔戒天浄という必殺技があるんですから、これからはさっさと使って下さいね」
そういえば落ちる前にそんなコトを考えていたかもしれない。見透かされたような事を言われて、頭にきた。
「あれはそう気安く披露できるもんじゃねぇんだよ」



本降りだった雨は、次第に小降りになっている。
少し前まで雨音を響かせていた雨粒は、霧のように細かく纏わり付くような雨に変わっていた。
「すみませんでした」
突然八戒が謝るので、三蔵は驚いて目を上げた。
「そういえば僕、煙草を持っていました」
八戒は先ほどろうそくを取り出したポケットをごそごそ探ると、コバルトブルーの箱を取り出した。
濡れないように、ご丁寧にビニール袋に包まれている。
「はい、どうぞ」
「…マルボロはねぇのか?」
「すみませんねぇ」
申し訳ないそぶりの欠片も見せずに八戒は微笑んだ。
三蔵は舌打ちしながらも差し出された煙草を受け取った。
この際あの男のためのものだろうが何だろうか、構わない。馴染みのない味でも無いよりマシだ。
「しりとりでもしましょうか?」
顔をしかめながらも一服して少し落ち着いた心地の三蔵に、八戒はのんびりと話しかけた。
「黙ってろ」
「退屈そうですから。トランプとか、花札とか…」
そういえば何か食べるものがあったかもしれませんと呟きながら、準備のよい男は再びポケットをごそごそと探り始めた。
三蔵は腹が減ったと騒ぐ悟空を黙らせるために、八戒がそこから飴やらガムやらチョコレートバーやらを取り出すのを何度か見たことがあった。さして大きくなさそうなポケットの中に、こいつは一体どれだけのものを潜ませているのか?
本当にカードでも取り出しそうだと眺めていたら、出てきたのは正方形の小さなビニールのパックだった。その中身は食べ物などではなくて、ゴム製の所謂…
「あれ?」
「…sexとか?」
低い声で目の前のものの使用用途を指摘する三蔵の言葉に、八戒はいいえ、などと口ごもりながらそれをポケットに戻した。
「そういえば敵に出会う前に、悟空に最後の飴をあげちゃったんでした」
八戒は何事もなかったように空になった掌をひらひらと振って見せると、やけにきれいににっこり笑った。
まともに相手をすると気力を使い果たしそうで、三蔵は大きなため息を一つつくと馴染みのない味の煙草に集中した。





夜はじりじりと更けていったが、雨の止む様子はなかった。
三蔵は思わず小さく息を吐き出した。
こんな日は、あの馬鹿猿の能天気なおしゃべりと煩いくらいの笑い声につきあって、いらいらしているのが一番なのだ。それなのに、隣にいるのはこの男で。おまけにろうそくの揺らめく灯りだけで、自分たちの周りは纏わり付くような闇で。
三蔵は助けを求めるように、懐の煙草を探った。
八戒は壁にもたれて座り、瞼を閉じている。
自分がここにいない悟空のことを考えているように、あの男のことでも考えているのだろうか。
三蔵は紅い髪の男のためにいつも煙草を潜ませている八戒の思いがけない一面に、胸の奥が奇妙に波立つのを感じた。
その時小さなため息と一緒に、八戒がしなやかな指を伸ばしてモノクルを外した。
いつもは薄いレンズ越しでしか見ることのない右の瞳が現れる。八戒は少し疲れた表情で、眉間のあたりに手をやった。
雨が降ると、古傷が痛むという。当然義眼の入った右眼も痛むに違いない。自らの手で、深く抉った、その痕も。
三蔵はふと、できるならモノクルを外さずにいてほしいと思った。
その両の瞳で見つめられると、胸に眠っている、いや眠らせているある想いが徐々に頭をもたげてきそうで、ひどく落ちつかない気持ちになるのだ。
時折相部屋になった八戒が旅装を解いて寛いだ表情を見せる時、きまって今と同じ気持ちになった。もちろん、それを悟られるような素振りをみせたことはないが。
無粋なレンズに遮られることなく両の瞳の揃った様は、気を抜けば見とれてしまうほどに三蔵の心を惹きつける。
三蔵は思い出した。
あまりに違和感なく自然で元からそこにあるようだからつい忘れてしまっているけれど、自分に向けられるあのきれいな瞳はまがいものなのだということを。そして八戒にソレを入れさせたのは、自分だったということを。
治療を拒む八戒を説き伏せて半ば強引に義眼を入れさせたのは、八戒が自分の罪から目を逸らさずに生きるために必要なものだから、などというキレイゴトのためではなかった。
この男の持つ闇が、あの瞳のあった場所からあふれ出してしまわないように。二度と自分を侵食しないように。
それは全て、三蔵自身のエゴのためだった。
だが術後初めて包帯を取った八戒の姿を目にした瞬間、三蔵は二つの瞳が揃ったその美しさに息をのみ、同時に自分の愚かさと執着の深さを思い知らされた。
自分はただ単に、美しいものが損なわれるのが惜しかっただけなのだった。


「どうしました?」
三蔵の視線に気づいた八戒が、小さく首を傾けた。
ろうそくの灯りが揺れて碧の瞳に複雑な影を映している。長く見ていると魅入られそうな気がして、三蔵は視線を逸らした。
「ここで二人で顔つき合わせてても仕方ねぇ。少し寝ろ」
「では交代にしましょう。お先にどうぞ」
八戒はにっこり微笑むと、霧雨の降り注ぐ暗闇に視線を向けた。
三蔵は何も考えていないような横顔に目をやりながら、この男は覚えているのだろうかと考えた。
こんな雨の夜に起きた、あの出来事を。
それからすぐに、こんなことを考えること自体どうかしていると思い強く目を閉じた。
余計なことを考えるのは疲れているからだ。少し寒気がするのは、雨に濡れたせいだろう。
熱を持ち始めた肩が気になりながらも、三蔵はいつの間にか睡魔に襲われて意識を手放した。




(2009.11.3)



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