夜明け前





5.






ゆらりと短くなったろうそくの灯りが震えて、八戒は霧のように降り続く雨から視線を戻した。
三蔵は眠ってしまったようだった。思わず深い安堵のため息が口をつく。
音もなく降る雨とろうそくの揺れる光。
眠る三蔵の横顔。そのきらめく金糸。
いつもは深いところにしまってある記憶が動き出すのを感じて、八戒は困ったように微笑んだ。
気を紛らすように立ち上がり、二本目のろうそくを取り出す。
短くなったろうそくから火を移そうと狭い岩場の中を移動したとき三蔵が小さく身動きして、八戒は思わず動きを止めた。起こしてしまったかと心配しながら、その整った寝顔をじっと見つめる。
その時三蔵の唇が、小さく言葉を紡いだ。
それを目にした瞬間、八戒は呼吸を忘れて立ち尽くした。
声にならないそれは、確かに“ごのう”と形づくられたように見えた。

ただ一度熱くその名を呼ばれた夜を思い出して、八戒は大きく震えた。
空を黒く染めて降りしきる雨。耳に染み付いたような陰鬱な音、湿った匂い。
ひどい耳鳴りと悪寒。割れた窓ガラス、血に染まった両手。
このきれいな人の煙草の香り、力強い腕。それから――
八戒は強く目を閉じて頭を振った。
あれは、夢だ。闇に囚われ惑った自分が引き起こした悪夢。
決して現実にあってはいけないこと。消し去ってしまわなくてはならない、誤った記憶。


八戒は深く息を吐くと、ゆっくりと視線を三蔵に戻した。
それでも自分は、決してその記憶を手放さないとわかっていた。
神に選ばれた特別な人が密かに沈めていた闇の深さを。それを引き出してしまったのが自分であることを。
甘い痛みと後悔を伴いながら、自分は決して忘れることはないだろう。
互いに一度も口にしたことはないけれど、あの時自分たちはわかってしまった。
おそらく本当の意味で互いを理解できるのは、相似な歪みを持つ自分たちだけなのだと。
互いの中に垣間見てしまった闇はとても似すぎていて、だからこそ、自分たちは決して近づいてはいけないのだと。
三蔵にはどうしても守りたいものがあって、自分にはどうしても手に入れたいものがあった。
それだけのことだ。
それだけのためにあの夜を永遠に胸に沈めたまま、記憶に蓋をして傍らに在ることを選んだのだ。
それでも、この人の中にまだあの夜が巣くっているのなら。
自分が決して忘れることがないように、三蔵もその胸の片隅にでも留めていてくれるなら。
身体の奥から湧きあがる喜びとも悲しみともわからない感情に、八戒は肩を震わせた。





三蔵が目を覚ますまでの間に、肩の治癒をしておかなければならない。八戒は自分のすべきことを思い出した。
服の上からでは患部に充分な気が届かないかもしれないと思いながらも、八戒は三蔵を起こさないように気をつけながら傍に寄った。
淡い光を受けるにつれて、眉間に刻まれていた皺が少し解けてゆく様子を目にして、八戒は小さく息をついた。こんな力でも少しは役にたつことが、心の底から嬉しかった。


ふと空気が震えた気がして目を上げると、いつの間にか雨は止んでいた。
遠くで小さく鳴く鳥の声が響いている。その音に引かれるように岩陰から出て空を見上げると、長い夜は終わろうとしていた。
自分たちを包んでいた闇は薄墨色に変わり、やがて空が白っぽく滲み始める。
雨に洗い流された空気は、この世の全てのものを漂白しようとするかのように透明に感じられた。
澄んだ空気の中に佇んでいると、対照的に自分の身に溜まっている澱みや汚れを強く思い知らされるようで、八戒は苦く笑った。
きっと今でもまだ、気を許せばこの身はすぐに闇に沈んでしまう。
光の当たらぬ闇の中では、植物が項垂れ萎れてしまうように。自分の心も凍りつき、何も思うことなく頑なに闇を見つめ続けるだろう。
あの紅い男がいなければ。
でもこの人は、自分とは違うから…。
八戒は振り返り、うずくまる三蔵の整った横顔を見つめた。
この汚れた身ができることなら、何でもしよう。
いつも前も見据え進み続けるこの人の、歩が乱れぬように。心が惑わされぬように。
そして何よりこの身に巣くう闇を二度と洩らさぬように。
それが生きることを標してくれた三蔵に対して、報いることのできる唯一の術だから。



いつも不機嫌な表情の最高僧は、子供のように無邪気な寝顔を見せていた。
あぁ、この顔…他の人に見せるのは惜しい気がする。一緒に落ちたのは正解だった。
決して最高とはいえなかった一夜を思い返して、八戒は微笑んだ。
朝霧に煙る森の中から響いてくる聞きなれた足音と賑やかな話し声に、八戒は顔を上げた。
一足先にたどり着いたジープの白い姿を目にして、空に向かって大きく両腕を伸ばす。
じきに現れる愛しい人の姿を思い描いて、八戒は心の底からの笑顔を浮かべていた。


“ほら、あなたの太陽が、朝焼けよりもっと紅い、僕の真実をつれてやってくる。”

もう夜明けは近い。






end






(2009.11.19)



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