きっとこの恋は間違っている

             




2.





「うるせぇ」
四方から降り注ぐようなセミの声のなか、三蔵は一人壁にもたれて呟いた。
強い日差しを避けて身を寄せた軒のつくる小さな日陰は、徐々に狭くなっている。
指先に挟んだ煙草から立ちのぼる煙は、そよとも揺るがない。突き刺すような日差しの下で、中庭の木々が項垂れている。
立っているだけで汗が滲み出てくるような暑さの中、それでも三蔵は屋内に入る気にはなれずに煙を吐き出した。
太陽の光が眩しすぎて目に痛い。
この寺院の外壁は必要以上に白すぎる。まるで白以外を拒絶するようなその白さにここに住む僧侶どもの傲岸な心内をみるようで、三蔵は不機嫌に眉間に皺をよせた。
いや。痛むのは目だけではない。
昨夜から痛むその場所に視線を落として、三蔵はため息をついた。
他人のために胸が痛む。そんな日がくるとは、思いもしなかった。
馴染みのないこの感情をもたらしている男の姿を思い描こうと三蔵は目を眇める。
この眩しい真昼の日差しの下でさえ、一人凍るような闇を見つめ続けているだろう碧の瞳。

その時どこからか自分の名を呼ぶ僧侶の声が聞こえた。
溜まった書類を放り出して抜け出してきたのがばれたのだろう。
徐々に大きくなるその声に小さく舌打ちをすると、三蔵は腹いせのように短くなった煙草を白い壁に押しつけ、執務室へ向かった。


積みあげられた書類の山に不機嫌顔で向かい始めてから、どれだけ経っただろうか。
気がつけば書類を捲る手は止まり、物思いに耽っている。そんな自分に気がついて、三蔵は小さく息を吐き出した。
聞き慣れた笑い声に窓の外へと目をやれば、中庭で悟空がセミを追いかけて遊んでいる姿が目に入る。
この暑いのに何が楽しいのだろうと、汗だくになりながら走り回る悟空の姿を三蔵は呆れながら眺めた。
だが昨夜見せたらしくない顔よりは、あのバカ面の方がよっぽどマシだ。
三蔵は昨夜の悟空の様子を思い返して眉を顰めた。

いつものことだが厄介な三仏神の命は、日のあるうちには済まなかった。
疲れ果てて夜遅く寺院へ戻った三蔵を出迎えたのは、緊張に顔を強ばらせた悟空だった。
いつもなら見えないしっぽを振るように嬉しそうにまとわりつく悟空が、土産を手渡しても笑顔も見せない。
大方また寺の僧と揉めたのだろうと考えながら、三蔵は足早に執務室へと向かった。
後ろを小走りに付いてきた悟空を扉の内に入れると、三蔵はいらいらと旅装を解きながら問いかけた。
「何かあったのか?」
暫く言い淀んだ後、悟空は大きな瞳をまっすぐに三蔵に向けた。
「三蔵は、妖怪を憎んでるのか?」
思いもかけない問いかけに、三蔵は目を見開いた。自分に向けられる金の瞳には、縋るような色が浮かんでいる。
「何故そんなことを聞く?」
「坊主たちが言ってたぞ。先代の三蔵を殺したのは妖怪だって。だから三蔵様も妖怪を憎んでいるに違いないって!」
旅の疲れが一気に押し寄せる。誰だかしらないが、余計なことを吹き込んだ奴に無性に腹が立った。
「くだらねぇ」
三蔵は苛立ちを押さえるように懐の煙草を探った。
先代を殺したのは確かに妖怪だ。だが妖怪云々の問題ではない。自分の邪魔をする奴に、妖怪も人間も関係ない。
「じゃあ、俺はここにいてもいいのか?」
「お前がいたけりゃ、いればいい」
その言葉に、悟空は安心したように大きく息をついた。
「よかった…八戒の言ったとおりだ」
探り当てた煙草のケースを思わず握りしめた。胸の奥に感じたのは爪を立てられたような小さな痛み。
「八戒がここに来たのか?」
悟空はしまったという顔をして、三蔵を見上げた。
「ちょっと用があったらしくて寄ったんだ。来たことを内緒にしてくれって言われたんだけど…」
小さな痛みはじわじわと胸に広がっていく。
「その話を八戒にしたのか?」
「ちょうど八戒と一緒の時に言われたんだ。でも八戒は、”悟空は気にしなくていいですよ”って言ってくれた」


あの時胸に広がった痛みは、今もまだ続いている。
”悟空は気にしなくていい。だが自分は――”
三蔵はその言葉の裏にある思いに、奥歯を噛んだ。
八戒は妖怪であるその身を悔いている。八戒の受けた衝撃は小さくはないはずだ。
訪れたことを口止めして帰ったことが、三蔵の胸を一層締めつけていた。




その時突然鳴り響いた耳障りな音に、三蔵の思考は遮られた。
苛立ち混じりに受話器を取りあげると、それは三蔵を一層不機嫌にさせる男からだった。
「来週の日曜、おヒマ?」
唐突な話に顔を顰める。
「…暇じゃねぇ」
「ヒマじゃなくても何とかしろよ」
「いきなり何の話だ」
「浴衣美人と過ごす、花火大会♪」
花火大会の部分に妙な節をつけて歌うと、悟浄は黙り込んだ。
受話器越しにカチと音がして、煙草を吸い込む気配がする。いつまで待っても続く言葉は聞こえてこない。
悟浄と対する時、三蔵はいつも厄介な感情を持て余す。ふざけた態度、掴み所のない性格、全てがいちいち気に触るのだ。
だが今一番知りたいことを教えてくれるのは、この男しかいない。
「あいつは…」
言葉が続かずに躊躇う三蔵の耳に、皮肉を混ぜた声が聞こえた。
「思い詰めた顔でタイル磨きながら、もう一時間以上風呂場から出てこねぇけど。一体誰の所為かね」
アイツは考え事があると、決まって掃除に没頭するのよと、悟浄は続けた。
自分の知らない八戒の姿を知る悟浄に対してわきあがる苛立ち。これが嫉妬というものだと、三蔵は最近知った。
「オレの家の風呂場のタイルが磨り減る前に、何とかしろ」
「人に掃除させておいて、言うセリフか」
確かにな、と笑いながら、唐突に電話は切れた。

三蔵は乱暴に受話器を置くと、電話を睨み付けた。
思い返せば以前にも、こうやって悟浄からの突然の電話で出かけたことがあったのだ。
花見と称して四人で集まったのは、満開の桜が咲き乱れる季節。そこで初めて、三蔵は八戒に思いを告げたのだった。
何気なく気まぐれで為されるように見える悟浄の行為は、全て八戒のためのものだ。自覚の有無は別にして、多分悟浄も八戒に惹かれている。
馬鹿馬鹿しいとは思っていても、そう思うだけで落ち着かない気持ちになるのを止められない。
三蔵は額に手を当てながら、深いため息をついた。
まったく柄じゃない。そもそも誰かをこんなに欲したり、心の中に入れることなど初めてで。
柄じゃないにも程があるのだ。
あの春の日から少しずつ時間を重ね、三蔵は八戒の頑なな心を解いてきたつもりだった。
だがあの日。
深く互いの想いと熱を確かめあったはずのあの日の後でさえ、三蔵は漠然とした不安を感じている。
それはどうしても八戒の心が捕らえられないのではないかという不安だった。
そして今、その不安は確かな形をもって三蔵の胸に迫っている。
だがそんな八戒に対して感じるのは、苛立ちよりも失望よりも、息苦しいくらいの胸の痛みだ。
三蔵から向けられる思いを信じる以前に、八戒は自分自身を信じていない。妖怪となった身を、八戒は未だ受け入れられないのだ。



三蔵はゆっくりと窓辺により、煙草に火をつけた。裏の林にでも行ったのか、いつの間にか悟空の姿は消えている。
重い空気の中、三蔵はゆるゆると立ちのぼり消えていく紫煙の先をぼんやりと眺めた。
思い浮かぶのはあの夜の八戒の姿。
未知の行為に震えながらも、三蔵の胸に縋りついた細い腕。濡れた唇から漏れた吐息と、信じられない程甘く響いた自分の名。まるで息絶えたかのようにベッドに沈んだ白く痩せた背中。
そして思い出すだけで赤面するような別れ際の三蔵の振る舞いに、うっすらと目元を染めて微笑んだ顔。
困ったような。咎めるような。それでいて言葉にされない”喜び”を浮かべた潤んだ瞳。
今その瞳を曇らせるのは、八戒に取り憑いたままの闇なのか。それとも自分なのだろうか。
自分ならいい、と思う。
八戒の感じる喜びも悲しみも、戸惑いも絶望も。全てを自分が支配できたら――

相変わらず煩いほどにセミが鳴いている。
限られた命の時間を惜しむようにがむしゃらに鳴き、空を舞い、壁にぶつかり地に落ちて尚、狂ったように鳴き続ける。
目眩を覚えるほどの暑さの中、頭の中に染み込んでしまったようなセミの声を浴びながら三蔵は目を閉じた。
たとえ八戒を追いつめるのが自分のこの想いだとしても…、逃がす気なんてもう微塵もないのだ。










(2009.09.10)


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