きっとこの恋は間違っている
3.
待ち合わせ場所に現れた三蔵と悟空は、花火の打ち上げ会場に向かう人混みに閉口した様子だった。
それでも先に来ていた八戒と悟浄に向かって、悟空が嬉しそうに両手を振る。
慣れぬ浴衣姿に動きにくそうだったが、白地に紺の絣模様は悟空によく似合っていた。
「よかった!間に合ったー」
「遅っせぇぞ」
「何で悟浄は浴衣じゃないんだよ!」
あれほど浴衣に拘った悟浄のいでたちは、革のパンツにタンクトップという、いつもと変わらぬものだった。
「そんなヒラヒラするもん、着てられっか」
そう言って袖を通しもしなかったのだ。
「三蔵サマだって、普段着じゃん」
「普段着じゃねぇ」
遠出の仕事帰りの為、三蔵は法衣姿だった。
いつもは近づきがたいほど鋭い印象を与える真っ白な法衣と金の髪が、夕闇のなかに浮かぶ提灯の光に照らされて柔らかく見える。
三蔵は浴衣姿の八戒にじっと目をあてると、僅かに目を細めた。
向けられる瞳もいつもより穏やかなものに感じられて、八戒は戸惑うように視線を泳がせた。
「八戒、きれーだなぁ」
悟空が感心したように八戒を見上げる。
悟浄の用意した黒地に白の雨絣は八戒によく似合い、その深い色合いが普段晒さない胸元や首筋の白さを引き立てていた。
「それは女の人にいう言葉ですよ、悟空」
八戒は笑って応えながら、そこが痛むかのようにそっと胸に手をあてた。
キレイなんて。
この皮膚の下には、醜い姿が隠れているのに。
「っていうか、色っぽいよなぁ」
悟浄が同意を求めるように三蔵に話しかける。
その答えを返すように三蔵に視線を向けられて、八戒は俯いた。
とても三蔵の顔がまっすぐ見られない。
次から次へと流れていく人波に祭り気分を盛り上げられたのか、悟空は待ちきれない様子で歩き出した。
その後を見失うまいと、悟浄が追いかける。
あっという間に二人の姿は見えなくなって、八戒と三蔵は流れる人波の中に残された。
「行くぞ」
「あ…」
唐突に左手を掴まれる。
乾いていて温かい三蔵の掌に包まれて、繋いだ掌から全身に熱が巡った。
ゆっくりと人波に流されるように歩き出す。
緩やかに繋がった指先が幸せなはずなのに悲しくて、八戒は目を伏せた。
まだ微かに夕焼けの残る中、遅い日暮れを待ちかねたように最初の花火が上がると周囲から歓声が湧きあがる。
夜空に浮かぶ色とりどりの花を見上げ、その後ほんの少し遅れて聞こえる破裂音を待つ人々は、大人も子供も一様に無邪気な表情を浮かべている。
腹に響く大きな音に、一斉にどよめきが上がった。
八戒は次々に上がる花火の音に引かれるように、目の前に大きく広がる光の渦を見上げた。
時折すぐ隣で夜空を見上げる三蔵の整った横顔にそっと視線を向けては、小さく唇をかみしめる。
花火を楽しむ余裕などなかった。
早く。
早く伝えなければ。
長引けば辛いだけだ。
いつか壊れてしまうならば、少しでも傷の浅いうちに。少しでも思い出の少ないうちに、離れなくては。
このままいけば、離れられなくなる。
ほら、今だってこんなに辛いのに…。
足下にぽたりと水滴が落ちた。
それが自分の涙だと気がつくと、涙はますます止まらなくなった。
立ち止まった八戒に腕を引かれ振り向いた三蔵は、ひときわ大きく夜空に開いた花火の光の下で、頬を濡らす八戒の涙に気付いて目を見開いた。
”もう、終わりにしましょう。 ”
その言葉は遅れて響いた花火の音にかき消されて、伝わらなかったと思ったのに。
三蔵の暗い紫の瞳に激しく燃え立つ怒りの表情が花火よりもきれいだと、八戒はぼんやり考えた。
「こい!」
三蔵は一言低く発すると、八戒の手を強く握り引きずるようにして、もと来た方へと歩き出した。
打ち上げ場所へと向かう人混みに逆らって進むために、多くの人とぶつかり罵声を浴びる。
それでも三蔵のスピードは緩まない。
「ち、ちょっと…三蔵っ!」
八戒が声をかけても三蔵は一度も振り返らない。
ただ何があっても離さないとでもいうように、痛いほどに強く手を握りしめられた。
人影もほとんど見えない程に打ち上げ場所から離れた頃、三蔵は突然立ち止まった。
空は知らぬ間にすっかり暮れていて、辺りは薄闇に包まれている。
足下の草むらから虫の音が小さく聞こえる。
花火の音が聞こえなければ、寂しすぎるほどの場所だった。
ふと顔を上げて、八戒は息をのんだ。
寂しげな外灯に照らされて目の前に淡く浮かび上がっているのは、一本の桜の木。
ここは――数ヶ月前、初めて三蔵と触れあった場所だった。
あの日零れんばかりに咲き誇っていた薄紅の花の代わりに、今は闇の中濃緑の葉が静かに生い茂っている。
「それがお前の望みなのか」
三蔵は手を放してくれない。握られた左手だけが焼け付くように熱い。
「…」
怒りを噛み殺すような三蔵の口調に八戒は目を伏せた。
許されないということはわかっている。どんな怒りも罵倒も受けるつもりだった。
だが次いで三蔵の口から漏れた言葉に、八戒は大きく目を見開いた。
「お前の望み通りにしてやる。だがその前に、俺に全てを見せろ」
弾かれたように三蔵の顔を見つめる。
「それは…どういう…?」
八戒の瞳を覗き込みながら、三蔵はゆっくりと囁いた。
「制御を外せ」
これ以上ないほど目を見開いて、八戒は三蔵の顔を見つめた。
向けられた三蔵の面には、怒りと悲しみが入り交じった複雑な表情が浮かんでいる。
だが同時に拒絶することを許さない厳しい視線が、八戒を射抜くように向けられていた。
「それだけは・・」
八戒の苦しげに歪んだ表情にも、三蔵は心動かされることなく口もとを引き締めた。
「聞けねぇな」
きつく掴まれたままの左手が持ち上げられて、八戒の耳元で止まった。
ゆっくりと三蔵の掌が離れていく。
血が通いだして痺れた指先に堅い金属が触れて、八戒は小さく震えた。
従わなくてはいけない謂れはない。だが…。
八戒は息をのんだ。
これで終わりにできる。きっとこの姿を晒すことが、三蔵の気持ちを断ち切る決定打となってくれるはずだ。
皮肉な運命に唇が歪んだ。
この姿が、この苦しみから救ってくれるなんて…。
八戒は強ばる指を耳もとで広げると、一気に三つのカフスを取り去った。
足下の草を小さく揺らしてカフスが落ちる音を聞いた瞬間、八戒の顔が苦痛に歪んだ。
「あ…あぁ・あ・っ」
解放される衝撃は、達する時の感覚にも似ていた。だがこの身体の震えは、そのためだけではない。
八戒は震える肩を自分の腕で抱きしめながら、よろよろと地面に蹲った。
三蔵の鋭い視線の中で己の全てを晒しているのだと思うと、緊張で震えが止まらない。
浴衣の袖口から覗く自分の腕から指先まで、びっしりと絡みつくように伸びる妖怪特有の痣を目にして、思わずきつく目を瞑った。
蔦が這い回るようなその文様は、青白い頬にも浴衣で隠された身体にも全身隈無く印されている。
鋭く伸びた耳と爪、いつもとは違う猛だけしい光を浮かべる瞳、すべてが自分の犯した罪の証なのだ。
どんなに醜い姿を晒しているかと考えると、怖ろしくて顔が上げられなかった。
蹲る八戒の目の前に三つのカフスが転がっている。意味をなさなくなったその金属が、八戒を嘲笑うように鈍く光っていた。
その時八戒の目に、夜目にも痛い程真っ白な法衣が飛び込んできた。
三蔵が自分の傍らに屈み込み、長い指で三つの金属を拾い上げるのを息をつめて見つめた。
「目を背けるな」
耳元で響く三蔵の声に、八戒は小さく震えた。胸が潰れそうに痛くて、強く歯を食いしばる。
「これが、猪八戒という男だ」
こうやってこの人は、いつでも現実をつきつける。
辛いだけの現実を。
「この姿を受け入れられないのは俺じゃない。お前だろう」
厳しい言葉は小さな虫の音と混ざり合って、何故か優しく響いた。
痛む胸を押さえ、導かれるように俯いていた顔を上げる。
自分でも目を覆いたくなるようなこの姿を、三蔵は眉を顰めることなく見つめていた。
向けられる瞳の中に見たこともない穏やかな光を見いだして、八戒は目頭が熱くなる。
「頼まれても俺は、一度繋いだ手は放さねぇんだよ」
背中に三蔵の温もりを感じた途端、強い力で引き寄せられた。
苦しいほどに三蔵の胸に抱きしめられ、真っ白な法衣に顔を埋める。
終わりを迎えて激しくなる花火の音を聞きながら、八戒は強く瞳を閉じた。
堪えきれずに溢れた涙が染み込んで、三蔵の胸を熱く濡らした。
いつの間にか花火の音は止んでいた。
初秋の風が二人の傍らを優しく通り過ぎていく。
八戒は三蔵に縋ることなく立ち上がると、まっすぐに三蔵を見つめた。
「カフスを返して下さい」
「八戒」
尚も制御を欲する八戒に、咎めるような三蔵の視線が向けられる。
「このままでは、あなたに触れることもできませんから」
自分の鋭い爪先が、少しでも三蔵を傷つけることには耐えられないのだと…。
八戒は照れたように頬を染めると、きれいに微笑んだ。
二人の初めを見守っていた木の下で、今初めて会った者同士のように見つめ合う。
愛する人の瞳に映る姿は、不思議なほど穏やかに微笑んでいた。
たとえこの恋が間違っていても構わない。
きっと全てはここから始まるから。
差し出された腕の中へ、今度は自分から飛び込んだ。
end