きっとこの恋は間違っている

             




1.





「最近ちゃんとメシ食ってる?」
既に時計の針は昼近い時間をさしていた。
完全夜型生活を送る同居人のために遅い朝食を用意していると、背中ごしに問いかけられて八戒はそっと苦笑をもらした。
相変わらず鋭い人だ。
確かにここ数日、食欲がなかった。二人の生活サイクルの違いから、悟浄と共に食卓を囲むことはあまりないので、気付かれていないと思っていたのに。
「食べてますよ。しっかり」
目玉焼きの火加減を気にしながらことさら明るく返す。
「うそつけ」
いきなり背後から手首を掴まれて、驚いて振り向いた。
「こんなに細いじゃん」
「ああ、びっくりした。火の傍で危ないですよ」
八戒の抗議に堪える風もなく、悟浄は八戒の手首を握ったままその視線を首筋に移動させた。
「…ソレのせい?」
遠慮がちに問いかけられて、八戒は僅かに目を見開いた。
首筋に微かに残る赤い痕に視線を感じると、もう痛みなど感じていない筈なのに、ピリッとそこが痛む気がする。
「消えそうだぜ」
なぜそのことを知っているのかと尋ねようとして、八戒は思い留まった。
イロゴトに聡い悟浄のことだ。きっと自分の様子を見れば、想像がついたのだろう。
ここ数日、気にしまいと思うほどにその痕は気になり、八戒は無意識に何度もソコに手を当てていたから。
「さっ、できましたよ」
素早く悟浄の手を外しフライパンに向き直ると、八戒はこれ以上話をする気はないとばかりに微笑みながら、目玉焼きの皿を差し出した。
悟浄はやれやれ、という表情で受け取ると、トースターからパンを抜き出しかじり付く。
「僕お風呂の掃除してきますから、後はよろしくお願いしますね」
悟浄の返事を待たずに、八戒は逃げるように居間を後にした。




ふと目を上げると、浴室の鏡に首筋を触る自分の姿が映る。
その姿に、八戒は思わず乾いた笑いを漏らした。
”その痕が消えないうちに、また来い”
別れ際、思いがけず強い力で引き寄せられ、首筋につけられたキスマーク。
噛みつくようなそれは、痛みさえ感じるほどで。
それでも自分の気持ちを容易に言葉にのせることのない三蔵の漏らしたその思いは、八戒の心を熱く揺さぶった。
まるで見せつけるように目立つ所に痕を残す子供じみた行為さえ、彼の想いの激しさを伝えてくれるようで、素直に嬉しいと感じた。
だが同時に胸の奥にわき起こる痛みが、八戒の高ぶる気持ちをじわりと冷やしていく。
自分は彼にこんな風に触れられるような、そんなきれいな生き物ではないと。

怖いくらいにきれいな春の花の下で、初めて抱きしめられた。
驚く八戒の耳元に落としこまれた低い囁き声と、背に回された腕の痛いほどの強さを覚えている。
近況報告のために定期的に訪れる寺院の執務室で、その後何度かキスをした。
最初は触れるだけだったそれは、会う度に激しくなった。全てを奪い尽くすような、身体の中に眠る熱を呼び起こすようなキス。
そしてあの日、八戒はその先にあるものを拒めなかった。
受け入れてはいけないとわかっていたのに。最後には自分から求めていた。

三蔵が好きだ。三蔵も自分を求めている。それはとても幸せなことの筈。
言い聞かせるように、胸に手を当てた。
ならばどうしてこんなに胸が痛むのだろう?
こんな気持ちは、知らない。初めてだから、分からない。
姉との恋には、こんな痛みは感じなかった。
出会ってすぐにお互いの全てを受け入れていた。離れていた長い時間の分、出会ってからは満たされた想いでいっぱいだった。
許されない縁であることとか、将来に対する不安はあっても、二人でいれば何でも乗り越えられる気がしていた。
それは幻のように儚いものだったけれど。
その短い思い出を抱きしめて、あとはただ身体が朽ちるのを待っているだけでよかったのに。
もう誰も好きになるつもりなんてなかったのに…。

今はただ、苦しい。胸が押し潰されそうに苦しい。
一日中、あの人のことばかり考える。
今何をしているのだろうとか。忙しい時間の中で、少しでも自分のことを思い出してくれるのだろうかとか。
図々しい思いばかり。
会えばもっと苦しいと分かっている。
咎人である自分が、神に選ばれた人に触れられる罪深さが怖くて。あの鋭い瞳に見つめられて、この心も身体も全てを暴かれるのが怖くて。
でもそれ以上に、あの人を求めてしまう、自分の強欲さが怖ろしいのだ。

こんなに苦しいのは、きっとこの恋が間違っているからだ。
八戒はゆっくりと左耳に手を伸ばした。
指先に触れる冷たい金属の感触に睫を震わせる。目の前の鏡の中には三つのカフスが鈍く光っていた。
この皮膚の下に隠れる、怖ろしい姿をあの人は知らない。
消すことのできない罪の証である、本当の自分の姿を。
もし自分が人間のままでいられたら、この苦しみも少しは軽くなっていたのだろうか?
そんな虫のよいことを考えて、八戒は唇を歪めた。
罪のない多くの命を奪い、愛した人を目の前で死なせ、憎んでいた筈の妖怪にまでなって…。
それでも。
それでもこんな生き物にならなければ、あの人に会うことはなかったのだ。

一昨日、三蔵の帰院する寺院を訪れたことを思い返す。
報告や検診といった事務的に決められた日ではなかった。
いつもの口実も使えない。
ただ一目でも三蔵に会いたいという気持ちだけが、気軽に行き来できる距離ではない道にもかかわらず、八戒を寺院へと向かわせた。
だが三蔵は留守だった。
夏の花のような眩しい笑顔で出迎えてくれた悟空が、三蔵は三仏神の命で、遠くの街まで出かけているのだと教えてくれた。
八戒は残念に思う一方で、心のどこかで安堵した。
会えばまた、求めてしまう。罪悪感を感じながらも、三蔵の腕に抱かれてしまうだろう。
訪れたことを悟空に口止めして、八戒は寺院を後にした。
帰り道、会えなくてよかったのだと一人で嗤った。


この痕はもうすぐ消える。
でも自分はもう会いには行かない。
あの人のためにも、自分のためにも、きっと行かない方がいいのだ。






長い掃除を終えて居間に戻ると、悟浄が受話器を置くところだった。
目の前の壁に掛けられたカレンダーに、赤鉛筆で何やら書き込みをしている。
「何かあったんですか?」
八戒が覗き込むと、来週の日曜日の欄に大きな赤い丸印がつけられていた。
「この日、街外れの河原で花火大会があるんだと」
悟浄が、カレンダーを指でパチンとはじいた。
「花火大会ですか…」
そう言えばいつも買い物をする商店街に、そんなポスターが貼ってあったかもしれない。
「ここからじゃどうせ見えねえし、一緒に行かねぇ?浴衣でも着てさぁ」
「浴衣なんてあるんですか?」
「知り合いの女に、用意してくれるように頼んだから」
「浴衣じゃないと、ダメなんですか?」
「それが風流ってモンでしょ」
普段全く風流とは縁がないくせに。珍しく子供のようにわくわくした顔の悟浄につられて、八戒も笑みを浮かべた。
「僕と二人なんて、色気がないですよ。きれいなお姉さんを誘ったらどうですか?」
「女はいくらでも現地調達できるしさぁ。なあ、行こうぜ。もうすぐ夏も終わりだし」
しつこく食い下がる悟浄に負けて、八戒は花火を見にいくことを約束させられた。

悟浄は上機嫌で煙草に火をつけると、ちょっとでかけてくるからと言って背中をむけた。
玄関のドアを開けると、蝉の声がいっせいに部屋の中になだれ込んでくる。
その声に紛れるように、悟浄の何気ない調子の言葉が聞こえた。
「そうそう、坊主と猿も呼んどいたから」
八戒の笑みがかたまった。
悟浄はそんな八戒の様子にはお構いなしにニッと笑うと、右手を上げて戸口から姿を消した。


八戒は閉じられたドアに向かって小さくため息をつくと、カレンダーへとゆっくり目を向けた。
やけにはっきりと印された赤が今は目に痛くて、眉根を寄せる。

見かけは粗雑でも心根は優しく繊細な同居人は、今まで決して八戒の感情を詮索したことはなかった。
三蔵とのことも、今日まで気付いている素振りさえ見せなかったのに。
きっと最近の自分の様子を見かねて、こんなことを企てたに違いない。
自嘲の思いに唇をかみしめて、八戒は睨み付けるようにカレンダーの印を見つめた。
もう自分から三蔵に会いに行くことはできないだろう。
それならば、悟浄のこの計画はいい機会かもしれない。
この気持ちが揺らがないうちに。
手遅れにならないうちに。

この日に伝えよう。そう心に決めた。








(2009.09.04)


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