君という光

             



8.






悟空にせがまれて砂糖菓子を売る屋台に連れて行かれる八戒の姿を横目に見ながら、悟浄はもやもやとした気持ちを持て余して空を仰いだ。
陽射しはあるが遠くに灰色の雲が現れつつあるのを目にしながら、大きく一つため息を吐き出す。


この苛立ちは、一体誰に対するものなのだろう?
想いを偽って八戒を抱いた三蔵に対して?
まるで心を防御するかのように、自らの気持ちに鈍感な八戒に対して?
それともそんな八戒を救えなかった、自分自身に対してなのだろうか?

"救う"―― その言葉を思い浮かべて、悟浄は苦い思いを噛み締めた。
柄でもない、こんな自分が誰かを救うなんて。
三年前八戒に会うまで、悟浄は自分の生き死ににすら投げやりだった。
八戒と暮らす時間の中で、確かに自分の何かが変わった。でなければ、こんな旅についてくるはずないのだ。
だが自分は八戒の何かを変えられただろうか?
与えるばかりで受け取ることを拒否しているこの男を、満たしてやりたいのに。
自分は八戒に救われてばかりで何も返せない。
それは棘のように、いつも悟浄の心に引っかかり続けている思いだった。
だが三蔵なら――。
何もかも撃ち殺すような強さで闇を照らし出すあの男なら、もしかしたら望んで闇に留まりたがっている八戒を救えるのかもしれない。
共に暮らすことで八戒に救われた自分のように、傍に居るだけで救われるということもあるのだから。


悟浄は本日何度目かのため息をついていることに気づいた。
あぁまた、貴重なシアワセが逃げていく。




それにしても、と悟浄は考える。
どうしてこいつは、こんなに鈍いのだろう?
他人の些細な痛みや変化には敏感なくせに、自分のことになると八戒は呆れるほどに鈍感な面がある。
それは、穏やかだが壁を感じさせるような微笑みで他人と一定の距離を保とうとするように、大事に抱え込んだままの傷を守るための、八戒なりの自己防衛の術なのかもしれない。


その時唐突に、悟浄はある出来事を思い出した。
それはこの旅に出る前のある夜。
こいつはどうしようもない馬鹿野郎なのだということを痛感した、あの夜のことを。












「僕のこの力が役に立つのなら、天竺でもどこにでも行きますよ」


それは唐突にかかってきた三蔵からの電話で、やけにあっさりと西への旅の話を伝えられた時のことだった。
八戒は受話器を握り締め、それまで見せたことが無いほど嬉しそうに笑った。
八戒は嬉しくても悲しくてもいつもきれいに笑う奴だったが、その時の笑顔は生きる力に満ちていて、そんな顔をさせられる三蔵に悟浄は少し嫉妬した。


そしてその日の夜。
「ねぇ、悟浄」
コーヒーを淹れながら、八戒が何気ない風に話を始めた。
「千人もの妖怪を惨殺したこの僕が、どうして今でも生きていられるのだと思います?」
薄い笑みを浮かべながら悟浄に問いかける。その笑みはあまり性質のよくないもので、悟浄は眉を顰めた。
「いくら三蔵が存命を願い出たからと言って、大量殺戮者の僕がそう簡単に許されるはずがないでしょう」
八戒の笑みが深くなるのを、悟浄は舌打ちしたいような気持ちで見つめていた。
その後に続く言葉はなんとなく想像がつく。
「きっと危険を伴うその旅に備えて、三仏神は僕を生かしておいてくれたんじゃないでしょうか?」
問いかけながらも、それは断言しているようだった。
悟浄の胸に、苦いものがこみあげる。
「何の為に?」
「三蔵を守るため」
それも命をかけて―そう付け加えて、八戒はコーヒーをカップに注いだ。

「ふざけんなよ。お前、ずっとそんなこと考えてたのか?」
「そう的外れではないと思うんですけど」
さもないことのように口にして、八戒はコーヒーを手渡した。
「そんなこと三蔵に言ってみろ。ブッ殺されっぞ」
「言いませんよ、あの人には」
八戒は小さく肩を竦めた。
「きっと僕の力なんか、三蔵には必要ないでしょう。それでもあの人を守ることができるかもしれない。僕のこの汚れた手が、役に立つかもしれないんですよ」
八戒は目の前に広げた両手をじっと見つめた。過去にその手を染めた多くの血を思い出すように、八戒の瞳の色が濃くなる。


それは犯した罪に対する罰だったのだろうか?
望んでもいなかった、むしろ憎むべき対象である妖怪に変化してしまったその身を、八戒はどうやってその心に受け入れたのだろう?
自分が妖怪になったこと、新しい名を得て生き続けることの意味を、八戒が必死になって求めていることを悟浄は知っていた。
半分妖怪の血の流れる悟浄には、漏らしたことはなかったが。


悟浄は八戒の気をひくように乱暴に灰皿を引き寄せると、強く煙草を押しつけた。
こんな話をしていて、八戒にとって良いわけない。
「あんな悪運の強い奴、お前が守ってやらなくても死にゃぁしねぇよ」
「あはは…。でもそのメンバー構成だったら、いろいろ役に立てると思うんですよ、僕」
機嫌の悪くなった悟浄を宥めるように、八戒はにっこりと笑った。
確かに家事全般難なくこなし主夫を自認する八戒がいなければ、生活能力の低い男ばかりの旅なんて不愉快極まりないことだろう。
「僕は自分が許されたなんて思っていません。身勝手なエゴで多くの命を奪っておきながら、この先幸せになろうとも思わない。それでも、こんな僕でも誰かの役にたつのなら…それが生きることに導いてくれた人たちの為ならば、どんなことでもしたいんです」
真剣な表情で言い切る八戒の瞳に浮かぶ強い光に、悟浄は言葉が返せなかった。
決して安らぐことも満たされることも自らに許さないこの男は、これから先どんな思いで生きていくのだろうか?
三年という時間で表面的には落ち着きを取り戻したようにみえる八戒だが、心の中では未だに闇を大事に抱えて手放そうとしていない。
悟浄は八戒の思いこみの強さと、自分がこの男を救うことの限界を思い知らされた。
いくら他人が何とかしてやりたいと思ったところで、救われるべき者が自らそう願わなければ、そいつを救うなんてことできっこない。
少なくとも自分にはできなかった。


「恩返しってか?そんなこと誰も期待してないぜ」
「わかっています。これは僕が望んですることですから」
できればそんな旅に八戒を行かせたくなかった。
だがそれを聞き入れる奴ではないことは、共に暮らした三年間で十分わかっている。
「しゃーねーな…」
悟浄は立ち上がり大きく伸びをすると、こちらを見上げる八戒に向かってニッと笑いかけた。
「俺が助けた命だからな。死に水も俺が取ってやるよ」
八戒は驚いたように瞬きをしてから、ふわりと笑った。
「勝手に殺さないで下さい。死にませんよ、僕は」














あの夜の言葉通り、旅にでてからの八戒は役に立ちまくっている。
ジープの運転に宿との交渉ごと。買い出し、洗濯、繕い物。野宿となれば食事の用意。戦闘になれば気攻で一度に大人数を吹き飛ばし、仲間が怪我をしたら治療。おまけに不本意かもしれないが、保父の役目までかってでている。
確かに他の三人は、黙っていたら自らやる輩ではないのだが。
この旅は八戒にばかり負担がかかっている。そして八戒自身がそれを望んでいるのだ。



珍しく考え込む悟浄をよそに、買い出しは順調に進んでいた。
そろそろ抱えきれなくなった荷物を両手に、悟浄は少し前を歩く八戒の背中に声をかけた。

「お前、三蔵のことどう思ってんの?」
これは三年間のつきあいの中で、恐らく初めての問いかけだ。
八戒は歩を止めて振り返った。
遠くを見るような瞳でゆっくりと空を仰ぎ見る。
横顔を見せたまま、八戒は何かに導かれるように話しだした。
「悟浄も覚えているでしょう?三年前、三蔵が城跡で経を読んでくれた時のことを」
普段は僧侶らしい素振りの欠片も見せない三蔵がただ一度だけ八戒のために読経したことは、今でも悟浄の記憶に鮮やかに残っている。


「あの時から、彼は僕の光です」


愛しい者を見るように、その瞳が優しく細められる。
八戒は頭上に輝く太陽に向かって両手を伸ばした。さし伸ばされた掌は、その光を慕い、求めているように見える。


「あの光が僕の進むべき道なんです」


ゆっくりと悟浄を振り返って、八戒は笑った。
悟浄はその透明な笑顔に目を瞠る。



「なんだ…それなら何の問題もないじゃん」
思わず気の抜けたような声が出た。
「はい?」
八戒が首をかしげる。
「お前、あいつにホレてるんだろ?」


一瞬目を見開いた八戒は、大きくかぶりを振った。
「まさか!もちろん三蔵には感謝していますけど…愛しているだなんて」
やけにきっぱりと言い切ると、八戒は少し口調を和らげた。
「これは、あなたへ感じているのと同じ気持ちですよ」
話を終わらせるように微笑むと、八戒は人混みに紛れて姿が見えなくなった悟空を探して歩き出した。
その後ろ姿を眺めながら、悟浄は今日何度目かのため息を吐き出す。


"そいつのために身を差し出してまで尽くしたいと思う気持ちを、世間では愛って言うんじゃないのか?
いい加減に自分の気持ちに気づけよ、八戒。"







(2009.6.24)

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