君という光
3.
「紅い月のことを、ストロベリームーンと言うそうですよ」
突然八戒が、妙に真面目くさった顔を向けた。
「ストロベリームーンを一緒に見た男女は、激しい恋におちるんだそうです」
知ってますか?とでもいうように、小さく首を傾ける。
三蔵は一瞬言葉につまり、八戒を見返した。
「ただの自然現象なのに、ずいぶんロマンチックな伝説ですよね」
「くだらねぇな」
八戒は時々思いもかけない言動をして、三蔵を戸惑わせる。
そんな自分を誤魔化すように、三蔵は新しい煙草に火を点けた。
「月が赤く見えるのは、地表に近いところに月がある時に青い光が散乱されてしまい、残った赤い光だけが見えるためなんだそうですよ。あとは山火事や火山の噴火などで大気中に塵や水蒸気が多くなっても、月の光が散乱されて赤く見えることがあるんです。そんなに珍しいことではありません」
素っ気無い三蔵の反応には構わずに、八戒は問われてもいないのに解説を続ける。まるで理科の教師のようだ。
「それがどうした?」
「科学的にはそうだとわかっていても、こういう月を見ていると、変な気分になりませんか?」
八戒は一呼吸置くと、心を奪われたような瞳でゆっくりと月を仰いだ。
白い首筋が妖しい光に晒される。
「…どういう意味だ?」
ふ、と三蔵に視線を戻すと、八戒はゆっくりと形のよい唇を引き上げた。
昼間見せる穏やかな笑顔とは違う、妖しい程の艶を含む微笑み。
「血が騒ぐ、というか―。普段隠している本性を、曝け出したい気分になりませんか?」
まるで三蔵の胸の内を読み取ったようなその言葉に、今まで感じたことのない、ぞくぞくとした衝動がわき起こる。
目の前のものを壊したくなるような怒りにも似た衝動に、こめかみの辺りが痺れるように痛んだ。
「お前は狼男か」
だが三蔵は深く煙草を吸い込みむと、その感情を押さえつけるようにわざと素っ気なく返した。
「あれは満月でしたね。まだちょっと早いかな」
「お前の本性なんざ、覗き見るのも恐ろしそうだな」
再び月を見上げる八戒の横顔にそう告げると、八戒は僅かに目を瞠り、その後やけに明るく"あははっ"と笑った。
「僕もですよ」
振り向いたその顔は、もういつもの八戒の顔だった。
三蔵が肩をすくめて灰皿に煙草を押しつけると、それが合図のように八戒は窓辺を離れた。
「コーヒーでもいれますね」
床に置いた荷物の方へ歩み寄り、がさがさと整理を始める。
「ここのところ野宿続きで疲れましたね。今夜は早く休んだほうがいいですよ」
確かに最近の行程は過酷で、身体だけでなく精神的にも疲労がたまっている。妙に気が高ぶっているのはそのせいだろう。
三蔵は小さく息をはいた。
その時。
突然目眩を覚えて、三蔵は強く目を閉じた。
瞼の内に広がる血のような色の月――
魅入られたように見上げる八戒の横顔。見たことのない妖しい微笑み――
魔がさす、とはこんな感じなのだろうか。
あの悟浄の言葉に深い意味などないとわかっている。それでもそんな気になったのは、八戒の慌てる顔が見てみたかっただけなのかもしれない。
頭の中で"やめておけ"という声が聞こえたが、三蔵はその声を振り払うように目を開けると、荷物を取り出そうとしゃがんでいる八戒の背後にゆっくりと歩み寄った。
「俺と一緒でいいのか?襲われるかもしれねぇんだろ?」
「あなたが僕を?」
八戒は三蔵を仰ぎ見て微笑んだ。冗談だと思っているのだ、この男は。
まるで三蔵を信用しきっているように見えるその表情に、三蔵は先程抑えこんだ衝動が再び甦るのを感じた。
「どうしてそんなことをするんですか?僕、男ですよ?」
「男だろうが構わねぇ。俺だって、そういう気分になることもあるんだよ」
三蔵の言葉が本気なのか質の悪い冗談なのか判断しかねるのか、八戒は小さく眉を顰めた。
「気分ですか…」
八戒は考え込むように視線を彷徨わせながら立ち上がった。
「三蔵は、女性より男性がお好きなんですか?」
三蔵と向かい合うと、揶う風でなく真面目に聞いてくる。
"女でも男でもなく、お前が好きなんだ"と言う言葉が頭に浮かんだ。
そう告げればこの男はどんな顔をするのだろうか?
冗談はやめて下さい、と、軽くかわされるのか。それとも狼狽え怯えてこの部屋から逃げ出すのか。
どうしたらその胸にしまい込んだままの激情の片鱗でも見せてくれるのだろうか?
いつもは気づかない振りをしている八戒に対する想いが首をもたげてきて、三蔵は奥歯を噛みしめた。
「お前はどうなんだ?」
八戒の問いは無視して、三蔵は尋ね返した。
「僕は…彼女が最後のひとなんです」
八戒は一瞬儚な気に微笑むと、三蔵から視線を外した。
鎧のように本心を覆い隠すいつもの食えない笑みではなく、あの女のことを想う時に見せる頼りない微笑み。
三蔵から逸らされた瞳が、遠くを見るように細められる。そしてその表情が、まるで泣き出しそうに歪むのを見て三蔵は唇をかんだ。
この男は泣くのだろうか?三年前でさえ涙を見せなかった、この男が。
死んだ女のための涙など見たくなかった。もし泣くのならば、自分の所為で涙を流させたいのに―。
突然わき起こった思いもかけない感情に、三蔵は目を瞠った。
だが八戒は痛みを耐えるように目を閉じて小さくため息をついただけで、涙を見せることはなかった。
いつもは周到にその心の傷跡を隠している八戒が、取り繕いもせずに見せた弱々しい姿。
それが三蔵の胸の奥に焼け付くような痛みを引き起こし、押さえ込んでいた衝動に火をつけた。
"俺が目の前にいるってぇのに、女の幻見てるんじゃねぇ"
三蔵が一歩八戒へと近づくと、八戒は弾かれたように三蔵の顔へ視線を戻した。
「さん・・ぞ・う・?」
喉にひっかかるような掠れた声で呼びかけた八戒の表情が、三蔵の瞳を見て強ばった。
どれほどか凶暴な色が現れていたのだろう。
八戒は小さく震えると後ずさった。
足元の荷物に足を取られ、よろめいて壁に背中を預ける。
三蔵は更に追い詰めるように、その前に立ちふさがった。
緊張しているのか、いつにもまして白く見える八戒の顔の両脇の壁に手を付くと、大きく見開かれた瞳を覗き込むように顔を寄せた。
「なら、俺に抱かせろ」
三蔵は八戒の瞳から目を逸らさずに反応を待った。
一度足を取られたら、どこまでも沈んでしまう底なし沼のように深く暗い碧から、目が離せない。
こんなに間近でこの瞳を見るのは初めてだった。今そこに、戸惑いと怯えの表情が浮かんでいるのを見つけて、三蔵は嗜虐的な気分を感じた。
八戒は三蔵の瞳を見つめたまま息をつめ、指先さえ動かせない様子だった。
どの位そうしていたのかわからない。
まるで睨み合うような時間の後、ふっと八戒が瞳をそらして静かに息を吐いた。
次いですくい上げるようにゆっくりと視線を戻すと、三蔵の瞳を正面から見据える。
「一つ聞かせて下さい」
「何だ?」
「なぜ、僕なんですか?」
そう尋ねる声に警戒するような響きが混ざっている。
決定的な言葉を投げつけてやりたい衝動に駆られながらも、三蔵は全く違う意味の言葉を口にしていた。
「他に相手を探すのが面倒だからな」
相手なんか誰でもいいのだ、と。
その時ほんの一瞬八戒が見せた安堵の表情に、三蔵はやりきれない思いを感じて奥歯を噛んだ。
「これがあなたの本性なんですか?」
「そう思っていればいい」
三蔵は八戒の耳元に口を寄せ、わざと低く囁いた。
「どうせこんなこと、ただの暇つぶしだろ」
これは偽りだ。
この旅にでる前から。いや、寺院でこの男が寒々しい壁を見つめていた頃からずっと、自分のものにしたいと願っていた。
その体だけではなく、心の中も自分だけで満たしたいのだ。
だが愛しているなどと告げたら、この男は逃げる。
誰にでも人当たりの良い顔を見せる八戒が、その心の奥深いところは頑なに閉ざしたまま、誰にも踏み込ませないでいることに三蔵は気づいていた。
今自分の本心を知ったならば、想いを向けられることに怯えて三蔵から距離を置こうとするだろう。
それくらいなら―。
「いいですよ。それがあなたの望みなら」
まるであの息詰まる時間が無かったかのように清々しい表情で、八戒はにっこりと笑った。
「お相手しますよ、三蔵」
胸の奥がどうしようもなく痛んだ。
きっとこうやって、望まれれば大して躊躇うことなくその身体を差し出すのだろう。身体だけならば。
馬鹿な男だ。
誰かに愛される資格はないなどと、つまらないことを考えているに違いない。
まさかこんなことさえ、犯した罪に対する罰だとでも思っているのだろうか。
気にくわない。
こんな風に生きるために、自分はこの男を生かしたいと思ったのではなかったのに。
それでも…体だけ手に入れても意味がないとわかってはいても、手を伸ばさずにはいられない。
一度自覚してしまったこの想いは、もう誤魔化せない。
偽りを吐いてでも、この男がどうしようもなく欲しいのだ。
安堵なのか失望なのかわからずに、三蔵は小さくため息をついた。
自分も大概矛盾している。
自らの気持ちに正直なぶんだけ、八戒の方がマシなのかもしれなかった。
「こい」
初めて触れた八戒の手は思っていた通りに冷たく、まるで生きようとする熱情が感じられなかった。
その手をとってベッドへと誘うほんの二三歩の距離が、三蔵には途方もなく長く感じられた。