君という光

             



2.






三蔵は狭い部屋を見まわした。
窓際と壁際に簡素なベッドが一つずつ、古びた椅子が二脚と小机。申し訳程度にバスルームがついている小さな部屋。
いつも行き着く町で泊まるような安宿の一室のはずなのに、さっきから妙に落ち着かない気分を感じてしまう。


三蔵は荷物を乱暴に床に置くと、窓辺へ歩み寄った。
大きく窓を開け放つと、ちょうど東の空に昇りつつある月が目に入る。
満月にあと数日といったところの、僅かにいびつな月。
いつもなら全てを金色の光で静かに照らし出しているそれは、どういう訳か今夜は、その上にどんよりと紅い色を載せている。その異様さは、不吉な出来事の前触れなどと怖れられそうなほどだった。
風はほとんどなく、体にまとわりつくような重い空気が漂っている。



三蔵は月を見据えながら、懐から煙草を取り出した。
落ち着かないのは、この月の所為かと考える。
そうかもしれない。
滅多にに見ることのない禍々しい姿は、見ているこちらの胸をざわつかせる。
まるで月の内側からゆっくりと血が滲みでているようだった。
それは廊下に残してきたあの男に似ていた。
忘れてしまったように傷痕を隠してきれいに笑うくせに、時折密かにそこから血を滲ませ震えているあの男。


月を見てまで八戒のことを思い出す自分に苛立って、三蔵は舌打ちした。
ばかばかしい。
八戒が未だに血にまみれた傷痕を掻き回して自身を傷つけているのだとしても、それはあいつの勝手だ。
八戒のことなど、どうでもいい。
こんな気持ち、いつものように知らない振りをしてやり過ごしてしまえばいいのだ。


苛立ちを沈めようとする三蔵の気持ちを逆撫でするように、廊下に残してきた三人の声が耳に入った。
そして、これみよがしな悟浄の八戒への"忠告"も。
三蔵は眉間に深い皺を刻むと、不機嫌にドアを睨みつけた。




すぐに軽いノックの音とともに、八戒が姿を見せた。
自分に向けられた不機嫌な視線をものともせず、にこやかに笑いかけてくる。
「煩くしてすみません」
「ガキみたいに騒いでんじゃねぇ」
三蔵は言い捨てて背を向けると、煙草の灰を窓の外へと落とした。
目敏とく見つけた八戒は、慌てて部屋の隅に置いてあった灰皿を手にして窓辺に並んだ。
非難がましい視線を寄越しながら三蔵に手渡すと、天へと昇りつつある紅い月に目を向けた。
「すごい色ですねぇ」
感心したように呟くと、言葉もなく月に見入っている。
三蔵は一瞬八戒の横顔に視線を向けたが、すぐに目をそむけた。
まるで関心を持ってはいけないかのように…

重たい空気の漂う窓の外へ紫煙が立ちのぼり、ゆっくりと夜の闇へ消えていく。
訪れた静寂に、三蔵は再び胸のざわめきがぶり返すのを感じた。
そしてこのざわめきの原因は見慣れない月の所為などではなく、隣に並ぶこの男によるものだとはっきり意識した。
そういえば、この旅が始まってから八戒と二人きりで相部屋になるのは初めてかもしれない。
今夜この男を同室に選んだのは、久しぶりに屋根のある所で眠れるのだから静かに過ごしたいと思ったからだ。
悟浄と同室はまっぴらだし、八戒なら余計なことを話さずに済む。何よりこれからの行程の打ち合わせをするにも便利だ。
言い訳のように理由を考えている自分に気づき、三蔵は小さく眉を顰めた。



相変わらず八戒は何を考えているのかわからない顔で、紅い月を見上げている。
吸い寄せられるように月を見つめる白い横顔は、まだ八戒と名乗る前のこの男を思い出させた。

信じられない大罪を犯した男は、犯した罪の償いのためというよりも、ただ守れなかった女への愛のために殉じようとしていた。
その望みを断ち切らせたのは三蔵だ。
狂気と呼べるほどの激しさで女を愛し、失い、その女の元へ逝くという望みも砕かれて、激情を心の闇に閉じ込めた男。
残されたのは絶望に似た色を浮かべて三蔵を見る瞳と、全てを諦めきったような静かな微笑み。

犯した罪もそれに及んだ思考も到底理解しがたいものだったのに、三蔵はその男に強く惹かれる自分に戸惑った。
綺麗なだけの抜け殻のような男が心にしまい込んだ激情は、いかばかりのものなのか?
死よりも辛いであろう"生きること"を受け入れた男が、この先どういう生きていくのか?
それを見届けてみたかった。
純粋な好奇心だ。それ以外に何があるというのか。

他人に関心のない自分が後見人をかってでてまで三仏神にその存命を願い出たことの理由を、心の中で言い訳のように呟きながら。彼に対する認め難い想いに気づかぬ振りをしながら。
三蔵はこの三年間、八戒が新たな生を受け入れ変容していく様を見守ってきたのだ。


そういえばあの頃もよく八戒は、寺院の一室の殺風景な壁を身動きもしないで見つめていた。
何の感情も宿さない、深い闇を湛えた瞳で。
あの時見ていたものは何だったのだろう?
永遠に失ってしまった女の姿か、それとも手にかけた者達の末期の顔か。
この男はあの時見ていたものを、今でも覚えているのだろうか?


あの頃とは別人のように穏やかに微笑む八戒は、消えない傷を抱きながらも三年という時間をかけて、強く生まれ変わったように見える。それはいささか強くなりすぎた程に。
にこやかに微笑みながらも鋭くこちらに切り込んでくる言動を思い浮かべて、三蔵は顔を顰めた。
だが時折雨の日などに見せる暗い瞳は、未だに八戒が過去に囚われていることを物語っている。
もちろんそれを責められる資格は、三蔵にはないのだ。
だが自分と同様に、八戒がその傷跡を疼かせながら雨が止むのを待っているのかと思うと、最近では雨が降る度に、今まで以上に心かき乱される思いを味わっていた。


三蔵は不機嫌に夜の闇を睨みつけた。
今夜の部屋割りは失敗だった。
さっきから自分は八戒のことばかり考えている。
このままでは、考えたくないことにまで気持ちが向いてしまいそうだった。










(2009.6.4)

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