君という光
10.
部屋に戻ると三蔵はいなかった。
後ろ手に閉めたドアにもたれかかると、思わずため息が零れる。
悟空の部屋にでもいるのだろうか。
ゆっくりとわきあがる安堵なのか失望なのかわからない感情に、八戒は胸を押さえた。
昼前に降り出した雨は、いっこうに止む気配がなかった。
こんなに降ってしまっては出発を見送るしかない。なんとか今日のうちにこの街を発ちたかったのだが。
次の街までは随分距離があるので、また数日野宿が続くはずだった。そうすれば、夕べのことは有耶無耶にして忘れられると思っていたのに。
もう一晩この街で過ごすことになってしまった。
この部屋で。三蔵と二人で。
部屋を変わりたいと言い出しかねた。朝から三蔵の顔がまともに見られないのだ。
視界の片隅にでもその姿を認めると、胸が焼け付くように痛んだ。そのくせ、どこかでいつも三蔵の姿を探している自分に八戒は気付いていた。
まるでその痛みを確かめたいかのように…
もうすぐ夜がくる。
八戒は、決して強い降りではないが、止むことなく降り続く雨を物憂げに眺めた。
何故こんなに胸が苦しいのだろう?
三蔵がいないから?だが目の前にいたとしたら、もっと苦しいのだ。
雨の日の恐怖に耐えられず自ら紅い髪の友の腕に縋った時でさえ、こんなに苦しくはなかった。
買い出しの途中で、"三蔵と関係した"と告げたときの悟浄の驚いた顔を思い出して、八戒は苦い笑いを浮かべた。
きっと呆れられたにちがいない。二人が犯した過ちを、再び繰り返すつもりなのかと。
悟浄はどうしようもなく優しすぎるのだ。
ただ死ぬばかりだった自分を助けてくれただけでなく、行く宛てがないとわかると同居人としてくれた。
犯した罪の重さと狂気の記憶から逃れたくて縋った自分を、何のためらいもなく受けとめてくれた。
その場凌ぎのためだけに求めた愚かな自分を、雨の夜の恐怖から何度も救ってくれた。
それなのに、自分は彼を利用しただけだった。彼の気持ちに気付いていながら、姉への想いを口実にその想いに向き合おうとしなかった。
" ゴメン。オレやっぱ、おねーちゃんがいいわ"
雨に恐怖を感じなくなった頃、さりげなく言われたその一言に八戒は救われた。
それ以来、悟浄とは関係を持っていない。
いくら手をさしのべても、奥底に届かない八戒の心に愛想をつかしたのだろうか。
そうであってほしかった。
だが…
八戒は胸の奥からせり上がってくるような痛みに大きく息をついて、目を閉じた。
この心の奥まで掻き乱されるような感覚は何なのだろう?
悟浄と関係を持っていた時には感じることのなかった、心の奥底に沈めた何かをゆり動かされるような感じ。これは、相手が三蔵だからなのだろうか?
今朝起きたときの動揺といったら、自分でも可笑しいくらいだった。
目を覚ましたら、すぐ目の前に三蔵が眠っていた。三蔵の寝顔なんて、間近で見たことがあっただろうか?
いつも何かに警戒しているように神経質な人が、こんなに無防備な寝顔を見せるなんて。
金の髪が朝の光を浴びて信じられないほどきれいだった。
なぜ同じベッドに三蔵がいるのかということに思い至って八戒は固まった。昨夜の記憶が一気に押し寄せて、血の気が引いた後に羞恥で全身が熱くなった。
改めて見れば、やはり金の髪が美しくて――
昨夜は平然と触ることの出来たその金糸が、今朝はもう恐れ多くて手を伸ばすことも出来なかった。
それでも、いつもはその瞳が向けられる度に胸が痛むような気がして長い間見つめたりできないその顔を、眠っているのをいいことにまじまじと見つめ整った美しさに見とれた。
時折感じる、あの胸の奥底まで突き刺さるような鋭い視線が向けられないことに、安心しながらも物足りなく思う自分はどこかおかしいのだろうか?
きっと自分は三蔵を苛立たせる存在なのだろう。
隠しているつもりでも、全てを見透かすあの瞳の前では、この胸に未だに巣くう闇など容易く暴かれてしまう。いつまでも闇を捨て去れない自分を、三蔵は腹立たしく思っているにちがいないのに。
殺されるのではないかと思う程激しい三蔵の視線の意味するだろうところと、昨夜の三蔵の行動がどうにも結び付かなくて、八戒は混乱していた。
八戒は窓枠に手をかけて、窓の外を眺めた。
雨に濡れる路上は薄暗く人影もまばらで、まだ夕暮れ時だというのに既に夜の気配が立ちこめている。
見ているだけで気が滅入ってくる景色に、八戒はため息をついて窓に背を向けた。ベッドに腰掛けてゆっくりと仰向けに倒れ込むと、ぼんやりと天井を見つめ考える。
後悔していないといったら、嘘になる。たとえ求められたとはいえ、あの人に抱かれるなんて許されることではない。
夕べ三蔵に触れられた所が痛かった。まるで背負い切れない罰を受けているかのように、体中が罪の意識で痛んでいる。
それでもこの痛みを受け入れたいと思う。 あの人が望むのならば――
こんな自分でも必要としてくれるなら、彼の為にどんなことでもしたいと願っていた。
八戒という名を得て以来、自分はこの旅を心のどこかで待ち望んでいたのだと思う。
残虐極まりない大罪を犯した自分が安穏と生き延びている― そのことに、日々慣れていくことが怖ろしかった。
あと少し長くあの生活を続けていたら、誤解していただろう。
許されたのだと。
ありえないことなのに。
わが身の存在理由を確かめられるこの旅は、願ってもないものだ。
たとえ命の危険に晒されることになろうと、三蔵を守るためならば一度死んだはずの身にとっては大したことではない。そしてそれが、自分に期待される三仏神の思惑なのだと思っていた。
そうだ。
三蔵がこの旅に自分達を連れているのも、三仏神の命に従っただけなのだ。彼が望んでしているわけではない。
それでも八戒は充分だった。
生きることを受け入れたあの時、朝日に包まれて経を読む三蔵の姿が、この世のものとは思えないほど美しかったことを覚えている。
自分はあの金色の光を一生忘れないだろう。あの光は、生きることを標してくれた玄奘三蔵、そのものだった。
あの目映いばかりの光が、心が闇に落ち生きる意思を見失ってしまいそうになる自分の目指す場所になっているのだ。
別段三蔵に恋愛感情を抱いているわけではない。
ただそれ以前にもっと大きな力で三蔵に魂ごと引き寄せられる自分を、八戒は不思議な思いで受け入れていた。