The Shadow Of Your Smile





4.





遠くで梟の声がする。
三蔵は行くあてなく木立の間を進んでいた。
暗闇の中絡み合う下生えに足を取られ、思わず舌打ちがこぼれる。
自分は何を好んでこんな真夜中に、藪の中をうろついているのだろう?
だがあのままあそこで、八戒と顔を会わせるのは我慢ならなかったのだ。
あんな夢の後で、しかも悟浄と過ごしてきた八戒と。
八戒のことを意識しすぎる自分に対する苛立ちをぶつけるように、乱暴に目の前の枝を薙ぎ払う。
次の瞬間、三蔵は息をのんだ。

誰も居ないはずの場所に、その男が、いた。
一番会いたくなかったはずの男が。


丈の低い草がびっしりと足元を覆う中、地面に蹲った姿勢で八戒がこちらを見上げている。
その瞳に、見慣れないものが浮かんでいた。
青白い頬を濡らす涙。
頼りない月明かりでもわかるほどに、それは三蔵の目を引きつけた。
呆然と見上げる無防備な瞳も流れ落ちる涙もあまりに思いがけなくて、三蔵は声を失って八戒の顔を見つめていた。

八戒は三年前でさえ涙を見せなかった。
あの時この涙を目にしていたら、この男との関係は変わっていたのだろうか?
三蔵の心の奥に鈍い痛みが甦る。
夢の中では穏やかな笑みを浮かべていた唇は、引き結ばれ小さく震えている。
涙に濡れた睫毛が瞬きをすると、白い頬を涙が一筋伝いおちた。
互いの息遣いさえ聞こえるような張り詰めた空気の中、三蔵はまるで初めて見るような気持ちで目の前の男を見つめていた。


「三蔵」
自分の名を耳にして三蔵は我に返った。
思いがけない八戒の姿に言葉を失っていた自分に気付いて、小さく舌打ちをする。
八戒の涙に見蕩れていた自分に。

八戒は手の甲で頬を拭いながらゆっくりと立ち上がった。
「どうしたんですか?」
「お前こそ、こんな所で何やってんだ?」
八戒の目元の、拭いきれなかった涙が光っている。
「僕が泣いていては可笑しいですか?」
八戒は薄く笑って、三蔵の視線から逃れるように俯いた。
「…今日は特別なんです」

三年前、一人の女と多く者の命が失われた日。
人間だった男がその罪によって望まぬ姿になった日。
この男はこの日を、今までどんな気持ちで迎えてきたのだろうか。


だが八戒が何かを耐えるように目を伏せたのは、一瞬だった。
ゆっくりと面を上げると、今度は真っ直ぐに三蔵の瞳を見つめ微笑みを見せる。
「今の、見なかったことにしていただけませんか?」
少し照れたように告げる声は掠れているが、先程まで纏っていた危うげな空気は消えうせて、いつもの穏やかで芯の強い八戒の姿が戻りつつあった。

その様子に安心しながらも、三蔵はどこかで惜しいと感じていた。
そしてそんな自分を誤魔化すように懐に手を伸ばす。
潰れかけた箱を取り出し一本抜き取ると、空になったそれをポンと八戒に放り投げた。

「煙草がきれた」
「最後の一箱だって言ったじゃないですか」
手元に落ちてくる箱を受け取りながら、八戒は呆れたように三蔵を見返した。
「どうせまだ持ってんだろ?」
「…バレてましたか。あなた、最近吸い過ぎですから」
悪びれることなく笑う八戒を軽く睨んで背を向ける。
「戻るぞ」
河童が心配している、とは言わなかった。
今思えばこの状況は、悟浄に嵌められたとしか思えない。
怒りが込み上げるよりも、呆れてしまう。あの男、一体どういうつもりなのか?




「三蔵」

歩きだした三蔵の背中に声が聞こえた。
どこかで耳にしたことのある柔らかな響き。
「もう少し…」
訝しげに振り向いた三蔵に、八戒が続ける。
「もう少しだけ、いいですか?」
三蔵の瞳に微笑みが映った。
どこかで目にしたことのある、懐かしく胸痛むような微笑みが。



肩を並べて草むらに腰を下ろした。
八戒は自分の膝を抱くように座り込むと、どこか遠くを見るような瞳でぼんやりと目の前の茂みを見つめながら呟いた。
「もう泣き方なんて忘れてしまったと思っていたのに…毎年この日になると、どうしようもないんです」
八戒は少し間を置くと小さく笑った。
「涙を流す資格なんてないと、わかっているのに」

まるでこの日が来たことなど忘れてしまったように穏やかな微笑みを浮かべて過ごしておきながら、夜更けにこんな場所で過去と向き合い涙を流す馬鹿な男。
あの男さえ傍に寄せることもなく、ただ一人で。
その心の抱える闇の深さと、頑ななまでの強さを思うと、胸が締めつけられるように痛んだ。
「泣くのに資格も何もねぇだろう。そのうち泣きたくても泣けなくなるさ」
そう、今の自分のように。
大事な人を守れずに失った時の後悔はいつまでも重く胸に沈み、時が経っても不意打ちのように浮かび出ては苦しめる。
そのくせまるで許されたいかのように、幼い頃に受けたあの人の優しさを夢に見る自分の弱さに嫌気がさす。
涙なんて出るわけがない。泣き方を忘れてしまったのは自分だ。
自然と自嘲の笑みが浮かんでいた。
「誰でも後悔の一つや二つ抱えてるもんだろ」


その時。
知らずに握り締めていた掌に温かいものが触れて、三蔵は驚きに目を瞠った。
自分の掌に八戒の白い指がそっと乗せられているのを信じられない思いで見つめた。
ただ触れるだけのその場所から、八戒の熱が伝わってくる。
冷えた空気の中、そこだけが温かい。
「そんな顔しないで下さい。そんな優しい顔…あなたらしくない」
からかうような言葉とは裏腹に、その口調は限りなく優しい。
「さんぞう」
その声に導かれるようにゆっくりと顔を上げた三蔵が目にしたのは、向けられる筈のない微笑み。
優しさと慈しみに溢れたあの微笑みが、今自分に向けられている。

自分は今、ガキみたいな顔をしてるのだろうか?
優しくしてやりたいのは、自分だったはずなのに――

「…誰の所為だ?」
らしくなく頬を赤らめて視線を逸らした三蔵を見て、八戒は驚いたように目を瞠った。
「すみません」
三蔵の耳元で宥めるように囁くと、先程とは一転、八戒は鮮やかに笑った。


その瞬間、胸の奥が大きく音をたてた。
突き破るような勢いで胸にある思いが込み上げる。
その激しさに、三蔵は思わず法衣の上から胸を掴んだ。
――どうしようもなく、この男が欲しい。誰のものかなんて、関係ない――
その落ち着いた物腰や穏やかな微笑みがあの人に似ているから、惹かれていたわけではなかった。
消せない過去に囚われながらも前に進もうとする強さに、常に優しくあれるその強さに心奪われるのだ。

「!」

思わず身体が動いていた。
触れるだけだった八戒の掌を握り締め、自分の胸へと強く引き寄せる。
肩に腕をまわしてきつく抱きしめれば、二人の身体は互いの鼓動が感じられるほどに近づいた。
八戒の瞳が、驚きに見開かれる。
「さ・ん…っ」
問いかける声を遮るように唇を合わせた。
続く拒絶の言葉を紡がせまいと、更に深く唇を奪った。


腕の中の身体は一瞬震え硬直すると、しかし緩やかに力を抜いた。
揺れる瞳に浮かぶものは抗議の色ではない。
戸惑いの色をのぞかせた後、八戒はゆっくりと瞳を閉じた。
気づけば握り締めていた指は絡みあい、三蔵と同じほどの強さでしっかりと握り返されている。
それはまるで、離れないことを願うかのようだった。










(2009.04.03)

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