雨模様
2.
身体を襲う絶頂感に意識をなくしては、引き裂かれる痛みで意識を取り戻す…
そんなことを、何度繰り返しただろうか。
気付けば部屋の中は闇が濃く迫り、傍らには疲れた表情で死んだように眠る三蔵の姿があった。
その整った寝顔にじっと目を宛てると、八戒は瞼を震わせて目を伏せた。
疲れているように見えるのは、身体の疲労の為だけではないだろう。
三蔵の心も、プライドも、ひどく傷つけてしまった。
許されることではないと分かっている。
それでもまだ、三蔵の光に触れたいと願う自分はなんて恥知らずなのだろうか。
そっと三蔵の背にシーツをかけると、八戒は震える脚でベッドから下りた。
身体に感じる痛みに歯を食いしばり、鉛のように重い体を引きずりながら浴室の扉を開ける。
シャワーを頭からかぶると、堪えていた涙が頬を濡らした。
どうして涙がでるのか判らない。全て自ら願った結果なのに――。
「ちょっとやりすぎた…かな」
自分の身体を見下ろして呟いた。
昨晩自分でつけた鬱血は、三蔵によってまるでそれを覆い隠すかのように執拗につけられた、キスマークと噛み痕に紛れている。
苦労して腕につけた手の痕と縄の痕の上にも、縛られたベルトの痕がはっきりと残っていた。
自分ではつけることのできなかった場所にも、きっと多くの痕が残っているだろう。
三蔵の残した情交の痕が。
この身体に触れていいのは、三蔵だけだ。
降り注ぐ水滴の中で、八戒は強く自分の肩を抱きしめた。
三蔵たちを見送ってすぐに、馴れ馴れしく声をかけてきた二人の男。
ひどい頭痛で苦しんでいた八戒は、相手をするのも面倒で無視をして部屋へと戻った。
部屋に入る瞬間、強引に押し入ってきた男達。
肩にかかった汚らしいその手の感触を思い出すだけで吐き気がする。
野卑な笑いを浮かべるその表情は、自分が妖怪であることを告げると恐怖に変わった。
気功の青白い光を見せただけで慌てて逃げだし、そのまま宿に戻ってこなかった。
戻らなければいい。戻ればきっと三蔵に殺される。
多くの血を浴びて得た望まぬ力が、この身を守るのに役立つのだ。
なんて皮肉なことだろう。
八戒は歪んだ笑いを浮かべた。
昼過ぎになって降りだした雨は、八戒の頭痛を一層酷くした。
夜になると雨はさらに激しくなり、そして三蔵たちは戻らなかった。
雨の夜はいつも三蔵の持つ光が、忍びよる狂気から救ってくれる。
だが昨夜は――
雨とともに訪れる狂気に抗えなかったのは、自分の弱さだ。
吹き込む雨にも構わず窓を開け放てば、部屋に満ちる雨の気配は、すぐに過去へと連れて行ってくれた。
久しぶりに愛していた女の名前を口にした。
何度も呼べば、帰ってきてくれそうな気がした。
悲しい出来事など夢だったように、思い出の中の女はきれいに笑っていた。
八戒を信じて疑わない、優しい笑顔。甘やかすようなまなざし。自分を呼ぶ透き通った声。
何もかもが懐かしかった。
だが懐かしいと思うほどに時は流れてしまったとのだと気づいた時に、まるで氷を押しあてられたように心が冷えた。
古びた宿屋の一室でぼんやりと雨を見つめる自分は、誰なのだろう?
"悟能…"
この世に存在しない筈の男の名が、優しく耳の奥で響いていた。
部屋の中をゆっくりと見まわすと、サイドボードに置かれた灰皿が目に入った。
数本残る吸い殻が、"八戒"という名を授けてくれた人を思いださせてくれる。
胸の奥に闇をしまいこみながら、いつも前を見続ける強い人。
自分を導くたった一つの光。
「三蔵」
その名を口にすると胸が痛んだ。
彼の迷いのないまなざしが恋しかった。
強い力で引きずり倒され、体中を貫く痛みを与えて欲しかった。
この身体に、消すことの出来ない自分の罪を刻みつけて欲しかった。
汚れた自分を抱いても、決して穢れることがない、あの人に。
三蔵はその厳しい外見から想像できない程、いつでも優しく八戒を抱いた。
時に八戒が、もどかしく思う程に。
そんなに大切にされる資格など自分にはないというのに。
本当に優しい人だ。
今朝でさえ怒りに任せて引き裂くように抱きながらも、最後には八戒を許していた。
朧気に労る様に触れられた掌の感触を覚えている。
汚れた身体も清められていた。
その優しさに触れる度に、八戒は考える。
自分は許せただろうか?
もし彼女が生きていたとして、自分の子でない命を宿した彼女を許せただろうか?
自分のその無意識の迷いが、彼女をあんな死に方に追い込んだのではないか?
もしあの時、すべてを許すことができていたなら――
後悔の念が八戒の胸を締めつける。
自分は救いようがない。
彼女を死なせ三蔵を傷つけて、なお狂気に囚われる自分は最低だ。
耳元でノイズのように響く水音と、身体に纏わりつく水滴はまるで雨のようで。
この場所から身を退けば、腕を伸ばして水栓を回せば、この雨を避けられるとわかっているのに、降り注ぐ水の下から動けない。
雨は嫌いだ。
今でも狂気を連れてくる。
シャワーの湯が冷たい水に変わっても、八戒は壁に両手をつき項垂れたまま、凍り付いたように身動きできなかった。