雨模様
     





3.




翌朝、宿の外には眩しい光が満ちていた。



四人が揃った朝食の席は、いつもと変わらず賑やかだった。
悟浄と悟空が飽きもせずに食べ物の奪い合いを始めれば、穏やかに微笑みながら八戒が仲裁に入る。



三蔵は目の前で当たり前のように繰り広げられる日常に眩暈を覚えて、目を瞑った。
昨日の出来事は、雨が見せた悪夢だったのだろうか?


視線を感じて目を上げれば、いつも以上にきれいに笑う八戒と目が会う。
まるで贖罪を終えたかのような透明な笑顔に、胸の奥が痛んだ。




悪夢のような時間だった。
何かに憑かれたような一方的な行為は、酷く八戒の身体を傷つけたはずだ。
だがきっと彼の心は安らぎに満ちている。
求めたものを手に入れた穏やかな表情が、それを物語っていた。






昨日の行為の後、睡魔に襲われた三蔵を目覚めさせたのは、途切れることなく続く微かな雨音だった。
傍らに目を遣れば、指先さえ動かせないほどに疲れ切って眠りにおちていった八戒の姿が見えない。
雨音だと思ったそれが浴室から聞こえるものだと気づいた時、三蔵は反射的に立ち上がっていた。



扉を開け、浴室中に響き渡るシャワーの音に唇を噛んだ。



降り注ぐ冷たい水の下、八戒は凍り付いたように佇んでいた。
近づいてシャワーの水栓を捻ると、八戒はゆっくりと俯いていた顔を上げた。
夢から覚めた様に三蔵を見つめると、何か言いたげに唇を震わせる。
だがその身体はずるずると崩れ落ちた。


慌ててその身を支えた三蔵は、あまりの冷たさに身震いした。
一体どれくらいの間、こうしていたのだろうか。


冷え切った身体をベッドに運ぶと、八戒は震えながら三蔵の腕に縋り付いた。

「本当にお前は世話のやける…」

ため息混じりに呟いてそっと濡れた髪を撫でてやると、八戒は子供のようにあどけない笑顔を見せて目を閉じた。






八戒は誰にも汚されていない。
三蔵以外を受け入れていないことなど、その身体に触れればすぐにわかった。
夜ごと憮んでいるその身体は、八戒の言葉よりも三蔵に対して正直だ。

用意された茶番につきあったのは、八戒がそれを望んだからだ。
狂気に囚われた八戒が。



仕方のないこととはいえ、迂闊だった。
八戒の頭痛は雨の降る前触れだ。
義眼の影響か、暗い過去の記憶の所為かわからない。
休息も薬も効果のないその頭痛は雨と共に酷くなり、度々八戒に狂気をもたらす。
自分が傍にいられれば、こんなことにはならなかった筈だ。



彼が望むのは、誰かに対する三蔵の嫉妬心でも、ましてや彼に対する想いの深さの証でもない。
そんな可愛いものならば、まだマシなのだ。


彼が望むのは、罰だ。
それも目に見える形での、痛みを伴う罰。




死を願うほどに絶望していたとしても、時と共に記憶は薄れていく。
誰にも忘却を止めることはできない。
生きることで罰を受け続け、犯した罪を償うという道を選んだ八戒にも、日々忘却は訪れる。
望んでいたはずの苦しみからも解き放たれていく。


そのことが時折、彼に耐え難い程の痛みを引き起こすのだ。


このままゆっくりと流れる時間の中で、辛い記憶はすり減り美しい記憶だけが残されることを。
まるで汚れたことなどなかったかのように、血に染まっていた筈の両手で三蔵に安らぎを求めてしまうことを。
八戒は未だ受け入れられない。
自分自身を許せない、そんな思いに囚われた時、彼は容易く狂気を受け入れる。




時折見せる八戒のその弱さに腹が立ちはするものの、三蔵はそれを責める気にはなれない。
その苦しみは、師を失った遠くない昔、自分にも覚えのあったものだから。
自分の方が少しだけ早く、そのトンネルを抜け出たというだけのことだ。


そして何よりいくら狂気に囚われても、八戒は三蔵にしかその姿を晒さない。
あんなに心を許している悟浄にさえ、救いを求める腕を差し出すことはしない。
八戒が求めるのは自分だけだとわかっているから――、三蔵が八戒を切り捨てることなど有り得ない。









「行きましょうか」




食卓の上はいつの間にかきれいに片づけられている。
朝食が済んだら出発と決まっていた。
悟浄も悟空も既に、外に停めてあるジープへと向かっている。




三蔵は八戒の後ろに続いて宿の薄暗いホールを抜け、雨上がりの空が広がる朝日の中へと踏みだした。


眩しいほどの光を浴びながら八戒が振り向いて、三蔵に微笑みかける。


もう一度、ゆっくりと呼びかけた。




「行きましょう、さんぞう」





ああ、行ってやる。

お前の狂気につきあって、どこまででも行ってやる。



だから――
 


その手を差し出すことだけは、躊躇うな。








end



(2009.2.26)

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