drops
4.
八戒は冷えきった空気の中、青白く光る月を見上げた。
目が奪われるほどに美しく澄んだその光は、いつも不機嫌そうでいて、実は暖かく自分を見守っていてくれる人を思い起こさせる。
クリスマスの夜に三蔵の前で不用意に洩らしてしまった言葉を思い返して、八戒は唇を噛んだ。
聡い人だから、もしかしたらこの醜い想いに気がついているのかもしれない。
それでも八戒の胸の内に立ち入ることなく、知らぬ顔で通してくれた。
三蔵が帰った後、八戒はテーブルの上に新聞が置かれているのに気がついた。
忘れていったのかとも思ったが、件の記事に再び目を止めて、これは三蔵がわざと残してくれたのだと思い至った。
“大人になるということは、諦めるということだ。自分の限界を知り、そんな自分を全て受け入れた上で、それでも尚、精一杯力をつくして生きていくことである。”
今、もう一度その言葉を思い返して、八戒は苦い笑みを浮かべた。
いかにも。尤もだ。
大人になるには、生きていくためには、色々なことを諦め、受け入れなければならない。
きっとそこからしか、自分の新しい「生」は始まらないのだ。
戻らない女のことも、犯してしまった罪も、忌まわしいこの身体も。
諦めなければ始まらない。
それから…あの男のことも。
いつの頃からか雨の夜は、八戒にとって恐怖ではなくなっていた。
雨とともに訪れるじりじりと蝕まれるような恐慌は、今では随分と和らいでいる。
それはどこまでも一人で闇に沈んでいこうとする八戒を、悟浄が強引に引き戻してくれたから。
想像もしなかった方法で、八戒が抱えるものを忘れさせてくれたから。
雨の夜に八戒が悟浄の部屋を訪れる目的は、今では「忘れるため」ではなかった。
抱き合っているときだけは、どこか他人を寄せ付けず、孤独であることを自分自身に強いているような悟浄の心の深いところに触れられるような気がした。
優しさを与えることには躊躇いがないくせに、受け取ることには不器用な、悟浄のきれいな心が愛しかった。
悟浄に惹かれる自分の気持ちを、八戒ははっきりと意識していた。
それがどれほど罪深く、薄情で、恥知らずなことなのかということも。
あの夜悟浄は八戒の胸を指差して、全て忘れろと言った。悟浄のことだけを考えろ、と。
たとえ冗談だとしても、悟浄の言葉は嬉しかった。
だがこの想いは、決して伝えることはないだろう。
こんな関係は、一時のものだから。
八戒が一言「もう大丈夫ですから」と告げれば、終わってしまう関係。
優しすぎるあの男は、苦しむ八戒の姿を見かねて、腕を差し出してくれているだけなのだ。
何より、誰かに執着するのが怖かった。
大切だと、手放したくないという想いは八戒を狂わせる。
誰かに激しく想いを寄せることを、八戒は恐れていた。
手に入れてしまったら、きっと失う恐怖に苛まれる。
本当に失ってしまったら……
もう二度と、同じ過ちを犯すことはできないのだ。
結局自分は、悟浄の優しさに甘えているだけだ。
想いを伝えることのない交わりは、きっと始めから間違っている。
歪なのだ。
だから悟浄を傷つける。
こんなことを続けていて、いいはずがない。
八戒は知らぬ間に俯いていた顔を上げた。
“今”が諦める時なのかもしれない。
この新しい年を機に。
この一年、多分誰よりも悟浄の近くにいたのは自分だ。
自惚れではなく、多分悟浄も気を許してくれている。
“友情”と呼べるものが、確かに存在していると思う。
抱き合うような関係があっても、友情と呼ぶのかどうかはわからないが。
それで十分なのではないか。
届くことのない想いを抱え込んで立ち止まっているよりも、諦めるのが正しい選択だ。
彼女を失った痛みが少しずつでも癒えつつあるように、悟浄を諦めたとしても、その痛みはいつかは癒えるのだろうから。
「あきらめろ」
声に出して呟いた。
彼女のいない世界でも居場所を見つけてしまった。
だからこれ以上望んではいけない。
執着してはいけない。
「あきらめろ」
目を閉じて呟いた。
穏やかに、分をわきまえて、密かに生きていければそれでいい。
それでいいはずだ。
「あきらめろ…」
祈るように、もう一度胸の内で言い聞かす。
その時。
「!」
いきなり軋んだ音とともにドアが開いて、光と熱気があふれ出てきた。
暗闇に慣れた八戒は、突然の眩しさに目を眇める。
闇を切り裂くように差し込んだ光の中から、悟浄があらわれた。
今、まさに、諦めようとしていた、その男が。
「こんなトコにいたのか」
悟浄は八戒の目の前に立つと、少し上気した顔で嬉しそうに笑った。
「…盛況ですね」
八戒は一瞬言葉につまったが、悟浄は気づかぬふうでポケットから煙草を取り出すと、八戒に並んで壁に身を預けた。
「まぁ、毎年こんなもんだけどな」
悟浄はライターが上手く点かなくて、苦戦している。
どうやら少し、酔っているらしい。
「オンナたちがお前のことをアレコレ聞いてきて、煩い煩い…」
悟浄が突然連れてきた“美人”に、女たちの話題は集中していたらしい。
「どうもこういう場は、慣れてなくて」
八戒は困ったような笑みを浮かべた。
「こういうのは、嫌いだった?」
悟浄は普段と違う八戒の様子に気がついたようだった。
「あそこは、賑やか過ぎて…」
華やか過ぎて。
あなたが、鮮やか過ぎて。
「疲れた?」
悟浄は気遣わしそうに八戒の顔を覗き込む。
八戒は湧きあがる胸の痛みに、目を伏せた。
「新しい年がくるといって、何が変わるわけでもないでしょう」
今諦めて、前に進むから。
新しい年には、きっと大人になるから。
そんなに優しくしないでほしい。
なんて身勝手な願い。
“悟浄は何処?”
室内から女たちの声が聞こえてくる。
もうすぐ0時になるようだった。
「早く戻ったほうがいいですよ」
八戒の言葉にも、悟浄は動こうとしない。
俯いた八戒の顔を見つめたまま、のんびりと煙を吐き出している。
室内では、カウントダウンが始まった。
一つずつ減っていく時を刻む声に急かされるように、八戒は顔を上げた。
自分を見つめる悟浄の瞳を捉えると、思いがけない言葉が口をついた。
いや、それは本当は、最初から尋ねたかった言葉。
「どうして僕を連れてきたんですか?」
「どうしてって――」
悟浄は動かない。
少し困ったような、どこか哀しそうな表情で八戒を見つめている。
まるで何かを諦めてしまっているような、そのくせ、諦めきれずに何かを求めているような瞳で。
あぁ、これは、あの夜と同じ瞳だ。
新しい年への時を刻む声が、一際高まっていく。
そして突然、部屋の灯りが消えた。
「お前と一緒にいたかったから」
その瞬間。
目の前の男を引き寄せたのは、確かに自分だった。
互いの息がかかるほど唇が近づくと、何の迷いもなく触れていた。
不器用に、まるでしがみつくように抱きしめる。
角度を変えて何度も唇を重ねると、驚きに竦んでいた悟浄の舌は、条件反射のように応えてくれた。
そのことが少し哀しくて、それでも嬉しくて。
ただ、今悟浄を離してはいけないことだけは強く感じられて、ますます腕に力をこめた。
信じられないほど甘い熱に、身体中が痺れて上手く息ができない。
このままでは酸欠で死んでしまうかもしれないと、ぼんやり考えた瞬間、新年を祝う歓声を聞いた。
窓からもれる光を目にしながら、ゆっくりと身を離す。
この男の傍にいて、大人になんかなれるはずがない。