drops

             




3.





歓声と浮き足だったざわめきの中、八戒はゆっくりと周囲を見回した。

この酒場に何度もきたことがある訳ではないけれど、以前の少し荒んだ、だが不思議と居心地のよさを感じさせてくれる薄暗さは全く消え失せている。
代わりに然程広くない店内は、派手な音楽、きらびやかに着飾った女たちの艶やかな声、そして新しい年を待ちわびる人々の浮かれた熱気に満ちていた。


はしゃいだ気分を煽るように光を弾いて回転するミラーボールを見上げながら、八戒は手にしたグラスを飲み干した。苦手ではないはずの水割りはなぜか苦いだけで、八戒は小さく眉を顰めて掌の中のグラスを眺めた。


大きな笑い声に目を向けると、フロアの中央に陣取ってひときわ盛り上がっている一群がある。
その中に悟浄の姿があった。
この店を仕事場にしている男たちが、今日だけは駆け引きなど無縁とばかりに楽しんでいるらしい。
グラスを片手に冗談を言い笑い合う男女の中には、幾人か八戒の見知った顔もいた。

その中でも悟浄は特別目立っている。
その容姿だけでなく、派手な雰囲気、そつのない振る舞い、軽妙な会話やジョーク。
八戒に対しては時に不安になるほど愛想がない面を見せることがある一方で、外での悟浄は強面の割に友人も多く、好かれている。
本人は認めたがらないかもしれないが―
八戒は何とも表しがたい複雑な感情に、溜め息まじりの笑みを浮かべた。






思いがけず、この年越しパーティに連れてこられたのは、小一時間も前だった。
酒場に出かけた悟浄を見送った後、いつものように一人で本を読みながら今年最後の夜を過ごそうとしていた八戒は、乱暴に開いた扉に驚いて顔をあげた。


「出かけるぜ、八戒!」
「!」

驚く八戒の腕を取ると、悟浄は強引に立ち上がらせた。
「出かけるって…どこに?」
悟浄はまるで悪戯好きの子供のような顔で笑うと、ウインクを寄越した。
「パーティだ!」

騒がしい場所は得意じゃないし、そんな気分でもないという抗議の言葉は、その笑顔の前に飲み込まれた。
八戒は悟浄のその笑顔に弱いのだ。
もしかしたら悟浄は、そのことを知っているのかもしれない。



街までの道は林の中を抜けてゆく一本道だ。
両側に枯れた木立ちが続く道を、二人無言で歩いた。
すっかり葉を落として寒々とした木々が暗闇に立ち並ぶ様は、まるで幼い頃絵本で見た幽霊のようだった。

一年程前の雨の夜、瀕死の状態で倒れていた八戒を悟浄が靴先で蹴飛ばして拾いあげた場所を通り過ぎる。
八戒は無意識に腹の辺りに手を当てている自分に気がついた。
もう傷は痛まない。
胸も…それほど痛むことはなくなった。
それは時の流れのせいばかりではないと、八戒はわかっていた。


悟浄が何を考えて自分を呼びに戻ってきたのかわからない。
だが一人でなく誰かと新しい年を迎えるのは久しぶりだということに、その時気がついた。

孤児院に居た頃は他の子供たちや大人たちと共に生活してはいたけれど、大晦日だからといって、特別はしゃいだり敬虔な気持ちになったりすることはなかった。妙に騒がしく浮かれている子供たちを寄せ付けないように、たった一人ベッドの中で毛布を被って本を読んでいるような、可愛げのない子供だった。
学生時代にはパーティなどの集いはあったようだが、もちろん参加することはなかった。
彼女と暮らしていた頃は――

八戒はゆっくりと目を伏せて自分の靴先を見つめた。
結局彼女と新しい年を迎えることはなかった。
二人で過ごした時間は、あまりにも短かったから。


八戒は目を上げて、少し前を歩く背中を見つめた。
悟浄とはこの先、どれ程の時間を過ごすのだろう。
自分はいつまでこの場所にいるのだろうか。







堅苦しい場じゃないから、と言われてほとんど普段着でやってきてしまい、八戒は戸惑った。
だが実は酒場の常連だったらしい、いつも買い物に行く八百屋の主人や、最近行きつけている書店の主人といった顔見知りも数人いた。

八百屋の主人の話によると、このパーティの最大のお楽しみは、新年のカウントダウンということだった。
新年を迎えた瞬間部屋の灯りを消して、誰彼構わず周りの人間とキスを交わし、新しい年を祝福するらしい。
女たちのお目当ては専ら悟浄だろうが…といって、人のよさそうな主人は笑った。



その悟浄は、周りの人間に八戒を紹介すると知らぬ間に消えてしまい、今は女たちに囲まれていた。
知り合いと話しをしていても、いつのまにか八戒の視線は悟浄を追っている。
そんな自分に気付いて、八戒は苦笑を浮かべた。


さっきから酒は進むのに美味いと感じられない。
せめて酔うことができれば、この場を楽しむこともできるのに。


この場所の妙に浮かれた雰囲気に気持ちがついていけなくて、気分が沈んでゆく。
少し酔ったからと周りの人間に言い訳をすると、八戒はそっと店の外に出た。








室内の熱気とは対照的に、外の空気はしん、と冷えていた。
深夜に向かって、ますます冷え込んできている。
その染み入るような冷たさが、今日という日には相応しいように思われた。

狭い路地から見上げた空には丸い月がかかり、その光が人気のない通りを照らし出している。
八戒は白い息を吐き出して小さく震えると、お世辞にもキレイとは言い難い酒場の壁に寄りかかった。



悟浄がわざわざつれて来てくれたこの場所を、楽しめないのは申し訳ない気持ちがした。
だが仲間に囲まれて楽しそうに笑う悟浄の姿は、八戒の心をかき乱した。
以前ここにきた時にも同様の姿を目にしていたし、その時は特別何も感じなかったのに。


原因は自分にあると、八戒にはわかっていた。
それはあの雪の夜に、悟浄が見せた涙。



あの時どうして悟浄が涙を流したのか、八戒にはわからなかった。
だが自分の言動の何かが彼を傷つけたことは、痛いほどわかった。
茫然とこちらを見つめた悟浄は、幼い子供のようにひどく頼りなく見えた。
手を差し伸べたかったのに。
抱きしめたかったのに。
八戒はその涙に縛られたように、動くことができなかった。


だが二人で言葉もなく見つめあっていたのは、一瞬のことだった。
「冗談だって。なに?マジになっちゃって―」
悟浄はいつもの調子でニヤリと笑うと軽く八戒の肩を抱いた。
そして問いかけも謝罪も口にする隙を与えない手際のよさで、戸惑う八戒を部屋から追い出した。
「おやすみ」
八戒の耳許に唇を寄せ、鼓膜を痺れさせるような低い囁きを残すと、悟浄はゆっくりとドアを閉めた。
あとは物音ひとつ、聞こえてこない。
ひどく遠いものになってしまった目の前のドアを見つめながら、八戒は唇を噛んだ。
どうして自分は、何もできなかったのだろうか。



その夜のことがなかったように、翌日遅く起きてきた悟浄は、普段と変わりがなかった。
八戒は前夜のことについて話をするタイミングを逸してしまった。
きっと触れられたくない何かに、自分が触れてしまったのだろう。
謝罪したい気持ちもそれを知りたい気持ちもあったが、さらに悟浄を困らせるかもしれない。
胸の中にもやもやとしたものを抱えながら、八戒はその想いを言葉にすることができないままに時間だけが過ぎてしまった。



付かず離れずといった悟浄の態度は、その後も全く変らなかった。
少し口数が減ったかもしれないが、本来そうおしゃべりな男ではないのだ。
ことさら賑やかに振舞うのは、周りの人間への一種の気遣いなのだということに八戒は気が付いていた。


だが週に何日かは家で過ごす夜があった悟浄は、毎晩外出するようになった。
行き先は賭場とは限らないようだった。親しい女性が少なくはないことは、わかっている。
自分たちが知り合った頃もそんな暮らしぶりだったのだし、彼の気ままな性格を考えれば不自然なことではないと思う。
あの夜のことが原因とは限らないとも考えたが、八戒はどうしようもない寂しさを感じていた。



雨が降れば、何かわかるかもしれない―


そう考えては、何度も自分の厚顔さにいたたまれない気持ちになった。
だが八戒の思いをよそに、あの夜以来、雨は一向に降らなかった。









(2009.1.30)

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