drops
5.
息があがるような口づけから開放されると、悟浄は茫然と目の前の男の顔を見つめた。
自分と同じように荒い息をつきながら、こちらを見返す瞳は、まるで抱き合っているときのようにひどく潤んでいる。
だが今その瞳に浮かんでいるのは、涙ではなかった。
見たことないほど、強く、はっきりとした意思を感じさせる瞳。
いつもの、どこか痛みを耐えているような悲しげな色は、微塵もない。
胸の内まで分け入ってくるまっすぐな光に、目が釘づけられる。
まるで拙い口づけだった。
悟浄が与えるような、快感を呼び覚ますことを目的とした技巧的なものではなく、まるで想いだけがあふれてしまったような、懸命な口づけ。
肩にまわされた腕の強さに反して、触れ合った身体は微かに震えていた。
だがだからこそ八戒の口づけは、悟浄にその想いの強さを伝えていた。
「ごじょう」
囁くように名を呼ばれて、身体が大きく脈をうつ。
「帰りましょう、悟浄」
八戒はいきなり悟浄の右の掌を取ると、先に立って歩き出した。
「か、帰るって…おいっ……八戒?」
誰も居ない通りに出ると、八戒は振り向くことなくどんどん歩いていく。
「お前、上着まだ店の中だろ!」
店に入る時に預けた上着が置きっぱなしだった。
この寒さでは自分はともかく、八戒が風邪をひく。
「いりません。明日取りに来ますから」
「さみーだろがっ」
「寒くなんてありませんよ。むしろ熱くて、たまりません」
握られた掌に、さらに力が加わった。
そこから伝わってくる温度は、確かに熱い。
まるで燃えているように。
林の中に入ると、八戒はさらに足を速めた。
来るときは立ち止まりそうな足取りで思いつめた視線を送っていた、自分の倒れていたその場所を、今は見向きもしないで通り過ぎる。
ひたすら前を向いて歩いていく。
悟浄の腕をひっぱって。
「ちょ、ちょっと待て、八戒!」
悟浄は八戒の手を振り払うと強引に立ち止まった。
さっきから訳がわからない。
どこか様子がおかしいと思ったら、突然口づけられて。
有無を言わせぬ雰囲気にここまで来てしまったが、急に帰るということは、どこか具合が悪いのだろうか。
それにしては足取りはしっかりしているし、力は強いし、何より…その表情が、生気にあふれている。
「落ち着け!」
「落ち着いてますよ」
林の中には青い月の光が降り注ぎ、漂白されたような冷たく澄んだ空気が満ちている。
八戒は悟浄と正面から向かい合うと、まっすぐにその瞳を向けた。
「いろいろ考えたんですけど、やっぱり諦めることなんてできそうにないので…」
諦める?何を?
「今夜は雨じゃないんですけど――貴方の部屋に行ってもいいですか?」
思いがけない言葉に、悟浄は返す言葉を失った。
「迷惑ですか?」
八戒はひどくまじめな顔で悟浄を見つめている。
そして首を少し傾けると、次の瞬間、惚れ惚れするようなきれいな顔で笑った。
「迷惑といわれても、止められないんですけど」
今自分がひどく間の抜けた顔をしている、ということはわかった。
だが頭のどこかが麻痺したように、八戒の言葉がうまく飲みこめない。
八戒が何を諦めることがあるのだろう?
八戒を諦めなきゃならないのは、この自分なのに。
「どうして?」
「どうしてって…それは…」
一瞬口ごもると、八戒は我に返ったように目を瞠った。
次の瞬間、月明かりでもわかるほどにその頬が赤くなる。
それでも八戒は、悟浄から視線を逸らさない。
「あなたが、好きだから……でしょうか」
この男は誰だ?
やけにきっぱりとした瞳で鮮やかに微笑んだかと思ったら、まるで初心な少年のように頬を染める。
いつも見せる穏やかで優しい笑顔も、雨の日に見せるどこか悲しみを含んだ、痛みに耐えるような微笑みもきれいだけど。
生の感情がそのまま溢れだして、抑えることができないといったその素直な表情は、ひどく悟浄の胸をうった。
あぁ、多分これが、本当の八戒だ。
自身を妖怪に変化させるほどの深い執着と激情を併せ持った、求めることに貪欲な男。
混沌の塊のようなこの男の持つ様々な姿の中の、これもごく一部なのだろうけど。
微笑みながら日常を過ごすときも、稀にけんかをして不機嫌になるときも、雨の夜に悟浄の腕の中で乱れるときも、八戒はどこか遠くにいた。
穏やかで遠慮がちで、頑なで。
決して悟浄に、その心の内まで立ち入らせてくれなかった。
本当はいつも願っていたのだ。
穏やかな微笑みやきれいな涙なんかじゃなくて、その胸に沈めている激しい想いの片鱗でも見せてくれたら。
その想いを、僅かでも自分に向けてくれたら、と。
「…やっぱり、迷惑ですか?」
いつまでも黙ったままの悟浄に、八戒が心もとない表情を浮かべた。
自分は何をしているんだろう。
物分かりのいい顔をしてこの想いを閉じ込めて、そのくせ雨の夜だけだと言い訳して中途半端に八戒に触れて、傷つけて。
自分で自分を縛り付けて、求めることもせず諦めようとしている。
今こうやって、八戒がその手を差し出しているというのに。
「でしょうかって、ナニよ?」
まったく、この男には敵わない。
それでも、このままではいられない。
なぜならとっくに自分も、諦め切れない想いを自覚していたのだから。
「負けてらんねぇよな」
突然大きな掌で、悟浄が八戒の掌を握り締めた。
驚いて顔を上げた八戒にニヤリと笑いかけると、悟浄はいきなり走り出した。
「うわっ…ちょっ…と…っ」
二三歩引きずられるように足を出した八戒は、すぐに体勢を立て直した。
その運動能力を見せ付けるように、すぐに悟浄と並んで走りだす。
「ズルイですよ、悟浄!」
僕が誘っているのに、と口にしながら、八戒が繋いだ手に力をこめる。
凍えるような青い月の下、熱い息を吐きながら、二人は林の中を走ってゆく。
競うように、それでも繋いだ掌は離れないように。
やがて額にうっすら汗をかく頃、灯りの消えた家が見えてきた。
息を切らしながら、悟浄がポケットから鍵を探し出す。
玄関のドアを開けるのももどかしく、二人は居間になだれ込んだ。
悟浄がはずんだ息を落ち着かせながら、灯りを探る八戒に話しかけた。
「あの…この間のな…、何か、ほしいものっつー話だけど…」
「はい」
「ベッドにしようぜ」
「!」
「ダブルの…いや、キングサイズがいいや」
目を瞠った八戒の瞳がきらきらと光っている。
「悟浄の部屋には入りませんよ」
「じゃ、ココに置くか」
「それは却下です」
八戒が愛しくてたまらないというように目を細めた。
「明日買いに行こうぜ」
「お正月ですから、お店はお休みですよ」
「マジ?じゃあ、明後日な」
「初売りでお買い得かも知れませんね」
いつまでもくすくすと笑っている八戒の肩を抱き寄せて、悟浄はその髪に口づけた。
腕の中の細い身体を抱きしめながら考える。
自分が望めば、見せてくれるのだろうか。
穏やかな顔の下に眠っている、一途な、怖いくらいの激情を。
この自分に、全て向けてくれるのだろうか。
それはうっとりするような、それでいて底のない沼に少しずつ沈んでいくような、微かなもの恐ろしさを含んでいた。
それでも。
自分は後悔しないだろう。
この存在を失うよりは。
ゆっくりと、悟浄の部屋のドアが閉まる。
二人の時間が、今、始まった。
そして5日後。
「お正月料理も飽きた頃でしょう。鍋でもいかがですか?」
新年の挨拶と称する電話の折の甘い言葉に誘われて、三蔵と悟空は再び、悟浄の家を訪れた。
出迎えに出た八戒の顔をひと目みるなり、三蔵はひとりごちた。
「遅かったか」
「何がですか?」
目を瞠り小さく首を傾げる八戒は、拍子抜けするほど屈託がない。
当然三蔵の思惑になど、思いも至らない。
「何でもねぇよ」
その時横で聞いていた悟空が、涙目で八戒にすがりついた。
「もしかして、ご馳走悟浄が食っちまったのか?」
「どうして、そうなるんだよ!」
八戒の陰から現れた悟浄が、大きな手で悟空の頭をわし掴んだ。
自分の方に引き寄せると、羽交い絞めにして締め付ける。
いつもに増して賑やかにじゃれつく二人を、八戒は微笑みながら見つめている。
その瞳に浮かぶ愛しげな表情を目にして、三蔵は小さく笑った。
「ここら辺だけ、雨でも降ったのか」
振り向いた八戒が、とけるような笑みを浮かべた。
end
(2009.2.11)
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