drops
2.
「ねぇ、三蔵」
八戒の声に、三蔵は新聞から目を上げた。
「涙って、本当にしょっぱいんですね」
突拍子もない言葉に八戒の顔をまじまじと眺めると、次の瞬間、三蔵は八戒をにらみつけた。
「…気色悪いことを言うんじゃねぇ」
八戒は、あはは、と笑うと目を伏せて、「すみません」と小さく呟いた。
暮れも押し迫ったこの日、三蔵と悟空は悟浄の家を訪れていた。
「寒くなりましたし、鍋でもどうですか?」
数日前、きれいな微笑みと甘い言葉に誘われた悟空は、クリスマスの日の外出を三蔵にしつこくせがんだ。
根負けした三蔵は山のようにたまった仕事を放棄して、悟空と共にこの家に足を運んだのだった。
特別豪華なものでもないが、家庭の温かみというものを感じさせる八戒の料理はいつ食べても美味く、内心三蔵は気に入っていた。
大量の鍋の材料と数種類のつまみが用意された今夜の食卓も、普段寺での味気ない食事に閉口している三蔵と悟空を楽しませてくれた。
クリスマスなど愚にもつかないと思っていたが、こんな風に過ごすのならば悪くないと思う。
普段は鬱陶しいほど鼻につくこの家の主が、珍しく口数が少ないことは少々気にかかったが。
食べて飲んで腹のふくれた悟空は、いつの間にかソファで眠ってしまった。
悟浄は腹の立つほど軽々と悟空を担ぎ上げると、自分の部屋のベッドへと運び込んだ。
そのまま上着を手に戻ってくると、ヤボ用が入ったと言って出かけて行ったのが、つい先ほどのこと。
鼻歌まじりで出かけた男を見送った後、八戒の様子は目に見えて変わった。
どこか気もそぞろな様子で、食べ尽くされたテーブルの上を片付け始める。手伝おうとすると気遣い無用と微笑まれて、三蔵は椅子に座り直した。
「きっといつも行っている酒場で、パーティがあるのでしょう。今日はクリスマスですから…」
八戒はまるで自分に言い聞かせるようにそう言うと、突然、件のセリフを口にしたのだった。
洗い物にとりかかる線の細い後姿を眺めながら、三蔵は眉をひそめた。
カチャカチャと食器の触れ合う音に混ざって、掠れるようなハミングが聞こえてくる。
陽気なクリスマスソングとは裏腹に、少し俯いて皿を洗う八戒の背中は、やけに寂しげに見えた。
その手つきには、いつもの細やかさが感じられない。
やがて聞こえた、小さな悲鳴と耳につく音。次いで小さなため息。
案の定、二枚ほど皿を割ったようだ。
三蔵は思わず苦笑をもらした。
なんてわかり易い…。
気を取り直したように皿を洗う八戒の姿を横目に見ながら、三蔵は再び新聞を読み始めた。
だが視線は活字を追ってはいたが、心は別のことを追っていた。
最近時折見かける首筋の痕。いつもと違った悟浄の様子。加えて先ほどの八戒の言葉。
なるほど。そういうことか…
合点がいって、三蔵は口元を歪めた。
この男をココへ置いたのは、誤りだったのかもしれない。
あのまましばらく寺に置いて、どこか適当な預け先を探してもよかったのだ。
だがこれは、八戒が選んだ道なのだ。自分がどうこう言う筋ではない。
ならばなぜ悟空のためなどと託けて、寒い中こんな所に足を運んでいるのかといえば、この男が気になるからに他ならないのだが。
三蔵がそれに気付いたのは、数か月前のことだった。
散々手間と時間をかけさせ三蔵の手を煩わせた、やたらきれいな男が見せた笑顔。
それがこの想いの始まりだった。
そもそも他人に興味のない自分が、前代未聞の大罪を犯した男の後見人をかって出て、無くした右目と名前を与えるなどということこそが、この男に対する奇妙な執着の表れだったのだ。
だが三蔵は、その時まで気付いていなかった。
八戒が悟浄を見つめて微笑んだ、その笑顔を目にする瞬間までは。
行く宛がないならしばらくこの寺にいればいい、という三蔵の申し出を辞退した八戒が向かったのは、赤い髪の男のもとだったらしい。
「僕、悟浄の所に住まわせてもらうことにしました」
悟浄をつれて戻ってきた際の八戒の言葉に一瞬返す言葉を失ったのは、その言葉に驚いたわけでなく、そんな言葉に動揺した自分に驚いたからだった。
八戒は三蔵の動揺には気付かなかったようで、そっと悟浄を見つめると、それまで見せたことのない笑顔を見せた。
誰もがつい見とれてしまうような、きれいな微笑み。
だがそれだけではなく、まるで愛しいものをみるような、慈しみに似た柔らかいまなざし。
それはどこかで見たことがある表情だった。
幼い頃父と慕った人が、気付くと自分に向けていたまなざし。
幼すぎてわからなかったそれは、きっと愛する者に対して自然と溢れだした想いが表れたものなのだろう。
八戒の見せたその表情は、三蔵にひどく懐かしく、胸が痛むような想いを起こさせた。
今更誰かに、それを与えてほしいわけじゃない。
ましてや自分の身を御すことさえ苦労している、この男の微笑みがほしいわけでもない。
ただ自分は、もう一度、あの微笑みを見たいだけだ。たとえそれが、自分に向けられたものでないとしても。
だが三蔵はあの時以来、八戒のあの表情を目にしていない。
定期報告や悟空の家庭教師のために慶雲院に姿を見せる時も、時折三蔵が前触れなくこの家を訪れる時も、八戒があの微笑みを見せることはなかった。
クリスマスなんぞむしろ腹立たしいだけのものなのに、こうして悟浄の家の狭い居間に座っているのも、だから鍋につられたわけではなくて、見たかっただけなのかもしれない。
あの懐かしい、胸が痛むような微笑みを。
いつの間にか三蔵は、持参した新聞の中のある記事に没頭していた。
「三蔵」
柔らかい呼びかけに驚いて顔を上げると、コーヒーカップを二つ手にして八戒が立っていた。
「何か面白い記事がありましたか?」
八戒はカップを置くと傍に寄り、三蔵の肩越しに手にしている新聞を覗き込んだ。
その行動に深い意味はなく、恐らくは眼鏡をかけていないせいで、新聞の文字が読みにくいためなのだろう。
だが八戒の息遣いとその髪の微かに甘い香りを思いがけず近くに感じて、三蔵は動揺した。
「大したもんじゃねぇ」
隠すつもりはなかったのに、変に意地をはったような言葉が出る。
「なんですか?教えて下さいよ、三蔵」
無防備に微笑む瞳はいつものように穏やかだった。悟浄が去った後感じられた奇妙な様子は消えている。
だがきれいな形の唇が自分の名を呼ぶのを目にしていると、変に胸が締め付けられるような気がして、三蔵はある記事を指差しながら、少し乱暴に八戒に新聞を押し付けた。
それは、ある作家の寄せた随筆だった。
大人になるということは、諦めるということだ。そんな自分を全て受け入れた上で、その時できることに対して、精一杯力を尽くすことである。
という趣旨のものだった。
「大人、ですか…」
八戒は時間をかけてその記事を読んだ後、呟いた。
「これは随分と、難しいことですね。こうありたいとは思いますけど、僕にはまだまだ…」
八戒は冗談めかすように、微笑んだ。
その細い身体に背負いきれぬ程の重い運命を背負った男にとって、全てを受け入れることは果てしなく困難なことに感じられるのだろう。
今は、まだ。
「きっとあなたに相応しい言葉ですね」
「いや」
三蔵は即座に答えを返した。
未だにあの人の影を求めている自分は、きっといつまでも大人なんぞにはなれない。
諦めきれない想い、諦めきれない後悔。年を経るごとに、そんなものばかりが溜まっていく。
「一番近いのは、河童だろう」
猥雑さを装った下で時折見せる、何かを諦めてしまったような瞳。
そのくせ気づかぬうちに差し出される、さりげない優しさ。
今夜だってわざとらしく出かけていったのは、変に気をまわしたつもりなのだろう。いらぬお節介だというのに。
この数ヶ月、八戒が少しずつでも前に向かって歩き出している様子を見ていれば、悟浄という男の存在の大きさを認めないわけにはいかない。
「あぁ、…そうですね」
その言葉に何か思うところがあったのだろうか。
八戒は急に口を閉ざすと、物思いに沈む様子で向かいの椅子に腰を下ろした。
「雨は、降らないでしょうか?」
コーヒーを飲み干す頃、問いかけなのか独り言なのかどちらともわからぬ風に、八戒が呟いた。
再び新聞に目を落としていた三蔵は、その言葉に不安や怯えではない、奇妙な響きを感じて、顔を上げた。
じっと窓の外の闇を見つめる碧の瞳は、底のない沼のように深すぎて、何を考えているのか読み取ることができない。
数ヶ月前この家に来る前には、こんな表情はしなかった。
背負うものの重さに怯え、生きることに困惑した暗い瞳をしていた男は、今、その心内は見せなくとも、求めるものを見つけたような確かな瞳をしている。
「しばらくは、降りそうにないな」
さっき目にした新聞の天気予報欄を思い出す。年内は冬晴れの晴天が続くだろうと、小さく記されていた。
「――降ればいいのに…」
微かに聞こえたその言葉に、三蔵は目を瞠った。
八戒の瞳に宿す熱がひどく艶かしいものに見えて、三蔵は息をのんだ。
「雨が…好きなのか?」
少なくとも三蔵の知る限り、八戒からそんな様子が感じられたことはない。
どちらかというと自分と同様、雨は苦手なのではないかと思っていた。
その言葉に我に返ったように、八戒は三蔵を振り向いた。
一瞬その瞳は危うげに揺れたが、すぐにそれを隠すような瞬きに紛れてしまう。
「最近空気が乾燥していますから。少し雨が降った方がいいかなぁと思いまして」
八戒は小さく肩をすくめると、いつものようにきれいに笑った。
きれいすぎて胸にひっかかる微笑み。
三蔵は内心ため息をついた。
この分では、今夜もあれはみることができそうにない。
いい加減に大人になる時だと思う。
今更あの人の面影をこの男に重ねてみても、何が変わるわけではないのだ。
らしくもない。ただのセンチメンタリズムというやつだ。
「今夜は泊まっていって下さい。もう遅いですし、悟空もあんな状態ですから」
「あいつは明日、一人で帰らせろ。子供じゃねぇんだ」
「でも、…夜道は危険ですよ」
「ふん」
この家で、一晩この男と過ごすよりマシだろう。
取り返しのつかないことになったら、どうするのか。
悟浄のように。
心配する八戒には取り合わずに、三蔵は外に出た。
空には降ってきそうな程たくさんの星が輝いている。
「雨の心配はないですね」
八戒は満天の星を見上げると、ほうっとため息をついた。
それは安堵によるものか、失望によるものなのか。
三蔵にはよくわからない。
「邪魔したな」
「気をつけて下さいね、三蔵」
たとえば、今、「江流」と呼ばれたなら…
もうそんな名で、自分を呼ぶ人はいないのだ。
ありえない夢は見ないことだ。
三蔵は背中に感じる八戒の視線を断ち切るように、月明かりを頼りに歩き出した。
「三蔵、忘れ物です!」
数歩進んだところで突然声をかけられて、三蔵は振り返った。
「メリークリスマス」
部屋から漏れる灯りの中に佇む八戒が、柔らかな声で呼びかける。
少し逆光がかったその笑顔は、その時確かにあの人と同じ笑顔に見えた。
右手を上げて応えると、三蔵は再び歩き出した。
林の中の道を曲がりきり悟浄の家の灯りが見えなくなる所まで来ると、三蔵は足を止めた。
凍えるような星空を見上げると、多くの星の中の一つが、すっと長い尾をひいて頭上を横切っていく。
ふと浮かんだ言葉に、三蔵は苦い笑いを浮かべた。
およそ僧侶の自分には縁のない言葉だと思っていたのに。
なんとも間の抜けた言葉だと思いながら、三蔵は白い息と一緒にそれを呟いた。
「メリークリスマス」