drops

             



1.



悟浄が動くたびに、その碧は深みを増した。
薄い壁ごしに聞こえてくる小さな雨音が、狭い部屋を満たしている。
だがそんな音など耳に入らないように、いつもは静かな湖面を思わせるその碧は、与えられる微細な刺激にも敏感に揺れ、潤み、艶を増していく。
やがてその瞳からは、水滴が溢れ始めた。
小さく落とした薄明かりの中で、それはまるで発光するようにきらめいて見えた。



昼過ぎから降り出した雨は止む気配がなかった。
この季節、日が落ちると空気は一層冷たさを増す。雨が降れば尚更に。

雨が降る夜には何故か家にいることの多い悟浄の部屋に、躊躇いがちなノックの音が響いたのが数分前。
ドアを開けると、八戒が少し震えながら所在無げに立っていた。
八戒が何か口にする間を与えないように、悟浄は素早く抱き寄せて口づけた。
それは雨の夜に繰り返される、二人だけの秘密。
確かに今夜はひどく冷えている。
抱き合う口実にはもってこいだった。




「そんなにイイ?」

悟浄は沸き立つ血流を紛らすように、ゆっくりと息を吐きながら囁いた。
泣く程にいいのかと、揶揄をこめて聞いてみる。
薄暗い天井に向けられていた八戒の視線が、ふっと戻ってきた。
だが八戒の応えはない。
つい先ほどまで耐えるように噛み締められていた唇は、途切れない喘ぎと甘い声を吐き出すのに忙しく、意地の悪い問いに答える余裕はないようだ。
それでも薄く開いた唇から覗く舌が、何か言葉を紡ごうとするようにひらめくのを目にして、悟浄は誘われるようにその唇に口づけた。

八戒は抱き合うと、必ず涙を見せる。
それは自分が与えている快感や痛みによる涙ではない、と悟浄にはわかっていた。
普段落ち着いた物腰で穏やかに微笑むのこの男が、心の中に沈めている激情。
―怒り、悲しみ、諦め、悔悛―
その涙こそが、容易に心の内を見せないこの男の中に存在する、確かな想いのように感じられる。


この関係は、恋愛ではない。
同情や哀れみや、ましてや性欲処理のためのものでもない。
愛してるとか好きだとか普段口癖のように女に囁く言葉を、悟浄は八戒に対して一度も口にしたことはなかった。

ただ数ヶ月前の雨の夜、八戒が何かに魅入られたように真っ暗な窓の外を見つめて、いつまでもこっちに戻ってこないから。
呼びかけて振り返った時、あんまり平気そうな顔で笑うから。
思わず腕を伸ばしていた。
抱きしめるとひどく安らいだ顔を見せたから、口づけた。
もっと忘れさせたくて、身体を奪った。

その時以来雨が降る夜にだけ、八戒は容易に悟浄の腕に捕まった。
相変わらず心の内は見えないのに、どうすれば悦ぶか、どうすれば乱れるか、どうすれば涙を見せるかなんてことだけは、すっかりわかってしまった。
だが自分たちは、これでいい。
普段からは想像できない程、脆く危うく、艶かしい顔を見せるこの男に、深入りするなと悟浄の中の何かが告げていた。
そうなったら、後戻りできないと。


「―――っ…」
悟浄が深く動くと、極みが近いことを知らせるように八戒の爪が肩に食い込んだ。
きつく閉じた瞼から零れた涙が、少し紅潮した頬を伝い落ちる。
悟浄は不思議な満足感を覚えながら、それを舐め取った。








絶え入ったようにベッドに身を預けていた八戒は、やがて小さく息をはいた。
いつものようにゆっくりと身を起こすと、少しぼんやりした様子でベッドの下に散乱した衣服を拾い上げ、それでも手際よく身に着けてゆく。

こうして今まで何度か抱き合ったが、朝までともに過ごしたことはなかった。
気を失うほどに酷く抱いたことがあったが、夜明け前に意識を取り戻した八戒は、重い身体を引きずるように自室に戻って行った。
確かにこのベッドは、男二人が朝まで過ごすには狭すぎる。
だが八戒が事後を悟浄と過ごさない理由はそれだけではないだろう。
きっとけじめなのだ。
雨の降る夜にだけ結ばれる、この関係を続けていくための。



だがいつもはほとんど言葉を交わすことなく部屋から出て行く八戒が、今日は様子が違っていた。
ジーンズに薄いシャツを身につけた八戒は、壁に寄りかかり足を投げ出してベッドに座る悟浄の目の前で、さっきまでの切羽詰まった様子が嘘のように穏やかに微笑んだ。

「あの、悟浄…クリスマスはどうするんですか?」
「?」
「もしよかったら、三蔵と悟空を呼んでもいいでしょうか?みんなで鍋でもしませんか?」
「えぇ、アイツらと?」
「この間三蔵のところに行ったときに、悟空にせがまれてしまって」
「なんでアイツらと鍋しなきゃなんねーの?」
「二人とも、今年はまだ鍋料理を食べていないんですって」
「寺の坊主どもと、やりゃあいいじゃん」
「…あまり盛り上がらないでしょうけどね」

悟空は八戒の料理目当てだが、どうせ三蔵の目当ては八戒だろう。
当の八戒は、自分に向けられる想いに全く気がついていないようだが。

「パーティというわけではないですけど、ちょうどクリスマスですし、鍋は大勢で食べる方が美味しいですからね」
「クリスマス、ねぇ―」
「あ、でも、予定があるなら別の日にします。何といってもクリスマスですもんね」
渋る悟浄の様子に先約があると考えたのか、八戒は慌てたように言い添えた。

「別に何もないから、いいけど」
「ありがとうございます。では明日伝えますね」
明日は悟空の家庭教師のために、慶雲院まで出かけるという。
それも、この雨が止んだらの話だが。


八戒は嬉しそうに、何を作ろうかとあれこれ思案している。
「あんまり張り切って豪勢なもん作るなよ。あいつら底なしだからな」
時折前触れもなく訪れては、普段静かなこの家を一時賑やかなものにして帰ってゆく三蔵と悟空の振る舞いを思い出して、悟浄は顔をしかめた。
前回二人が帰った後、冷蔵庫の中は清清しいほどに空になっていた。
大量に買い込んであった酒も、ほとんど飲み尽くされていた。
「悟浄も競い合って食べていたじゃないですか」
「そりゃあんな美味い料理、あいつらだけに食べさせるのは勿体ないし」
普段もよく食べる悟浄だが、四人での食事では更に食が進む。
それは八戒も同様で、普段食の細いこの男にとって、たまの賑やかな食事の機会は貴重だと悟浄は思っていた。
たとえそのきっかけが、あの二人であっても。

「いつも気持ちいいくらい食べてくれるので、料理のしがいがありますよ」
前回の食べっぷりを思い出したのか、八戒はくすくすと笑った。
汚れたテーブルを片付け、山のように積みあがった皿や鍋を洗う八戒は、ひどく幸せそうに見えた。

ささやかな日常の積み重ねが、頑なにしまいこんでいる八戒の胸の中の凍えた想いを溶かしていけばいいと思う。
時間にしか癒せないものがあるのは確かだ。

雨を口実に結んだ関係など、いつか八戒にとって不要になる日がくればいい。

そう考えて、一瞬胸の奥が冷えた。
そこからじわじわと広がり始める暗い予感に、唇をゆがめる。
縋るようにサイドボードの上の煙草に手を伸ばしていることに気がついて、らしくない自分に小さな苛立ちを感じながら、悟浄は乱暴にコバルトブルーのパッケージを握り締めた。






ゆっくりと立ち上る紫煙に目をやっていた八戒は、突然小さく首を捻った。
何かに引かれるように窓辺に寄ると、そっとカーテンを開けて小さく声をあげた。
「冷えると思ったら…」
少し前まで聞こえていた小さな雨音は消えていた。
八戒の心を縛り苛んでいた雨は、いつの間にか白く頼りない雪に変わっている。


悟浄はベッドから降りると、八戒と並んで窓の外を眺めた。
真っ暗な空から、ふわりふわりと落ちてくる白い欠片。

「初雪だな」

魅入られたようにモノクロの世界を見つめる八戒の横顔に、悟浄はそっと目をやった。
さっきまで感じていたはずの熱は、その白い頬からは去ってしまったようだった。
薄いシャツを羽織っただけの肩は、ひどく寒々しく見える。
もう一度温めてやりたいと思うが、きっと自分の腕は、もう八戒には必要ないだろう。
雨の連れてくる恐慌は去り、頼りなくても自分の足で前に進もうとする男がそこにいた。
ただ空から落ちてくる水滴が、結晶に変わってしまっただけなのに。
雪になってしまっては、もう悟浄にはその身体を抱きしめる口実もない。


「つもるかもしれないぜ」
「そうですね」

雪は見る間に落ちてくる速さを増しているようだった。
徐々に白くなっていく地面に、明日の朝は凍るかもしれない、と考える。
「三蔵のところに行くんだろ?」という言葉を、ひどく苦い思いで飲み込んだ。




「あの、悟浄…」
窓の外から悟浄に視線を移しながら、八戒は少しためらうように口を開いた。
「今、何か欲しいものはないですか?」
「なに?突然どーしたの?」
「もうすぐクリスマスですし」
八戒は照れたように微笑んだ。

「クリスマスプレゼント?」
「えぇ。いつもいろいろとお世話になっていますから」
その「いろいろ」という言葉の中には、今夜みたいなことも含むのだろうか。

「世話になってんのは、どっちかつーと俺の方じゃん」
「そんな…」
八戒は困ったような笑みを見せながらも、真剣な瞳を向けてくる。
「遠慮しないで下さい。こう見えても僕、少しは稼げるようになったんですよ」
少し前から始めたアルバイトの翻訳が調子に乗り始めたようで、八戒は定期的に収入を得るようになっていた。
その他にも三蔵の依頼で、細々した仕事を手伝っているようだ。
自分と幸運の女神の気が向いたときだけ不定期収入の悟浄とは違う、堅実な生活だ。



「じゃあ悟浄が最近、これはいいな、と思ったものは何ですか?」
何か答えを聞き出さねばこの部屋から立ち去らないという強い意思を感じて、悟浄は仕方なく思いを巡らした。


ほしいものと言われても…。
ちょっと前に雑誌で見た腕時計とか、ライターとか?
この間テレビで見た地域限定の焼酎は美味そうだったから、一度は飲んでみたいと思うけど。
あぁそうだ。だいぶくたびれてきたし、ブーツはどうだろう。
次々に頭には浮かぶけれど、どれもこれも、どうでもいいものに思える。


「ごめん。やっぱ、ないわ」
「何で謝るんですか?」
「気持ちだけもらっておくから」


昔から求められることは好きだけど、求めることは苦手だった。
欲しいものなんて何もなかったから。
金はその日生きていけるだけあればいいし、だまっていても女は寄ってきた。
何よりも、拒絶されるのが怖かったのかもしれない。


「案外無欲なんですね」
何故か八戒は、嬉しそうに微笑んだ。
「そういう訳じゃないんだけど」
「満ち足りている、ということですか」
「そーそー」


満ち足りている、ということが、正直どういうことかよくわからなかった。
ただ、あの雨の中。
腹の中まで曝け出して倒れていた八戒を拾い上げたあの時から、悟浄の世界は変わった。
死んだと思っていたこの男が、自分の傍に戻ってきたこと。
自分を助けるために躊躇いなく制御を外したこと。
雨の夜抱きしめたら、ひどく安らいだ表情で微笑んだこと。

八戒と過ごす全ての時間が、悟浄の中に今まで覚えたことのない感情を呼び起こしていた。
誰にも頼らず一人で生きていた自分が、他人と過ごすことに安らぎを感じるようになるなんて。
穏やかに過ぎていく日常に八戒が癒されていくように、悟浄もまた八戒と過ごす時間に癒されていることを自覚していた。
このまま時がたてば、八戒はいずれこの腕を必要としなくなるだろう。
それはとても喜ばしいことだ。
だが自分はどうだろう?
その時自分こそが、八戒を離せなくなっているんじゃないだろうか?



「本当に?」
「本っ当、気持ちだけで充分だからさ」

だが今なら、まだ大丈夫だ。
これ以上踏み込まなければ。求めなければ。

だから何も望ませないでほしい。
どうせ本当に欲しいものは、どうやっても手に入らないのだから――。



「でも…」 





めずらしく食い下がる八戒に対して、胸の中で突然小さな苛立ちがこみ上げた。
少し困らせてやりたい気持ちに負けて、悟浄は八戒と向かい合い、冗談めかして八戒の胸に指先を当てる。


「じゃあ、ここ」
シャツ越しに触れた薄い胸は、微かに温かかった。

「ここ、ですか?」
八戒は自分の胸に当てられた悟浄の人差し指を見下ろしてから、ゆっくりと顔を上げた。
碧の瞳が訝しげに見開かれる。
少し傾けた首のラインがきれいだな、なんて考えながら、悟浄はもう一度、今度ははっきりとソコを指差した。
そしてそれがどれだけ残酷な言葉かわかっていながら、その言葉を口にする。


「ここにあるもの、全部忘れて」

三蔵のことも悟空のこともジープのことも。
あの時殺したやつらのことも、ねーちゃんのことも。
全部。


「俺のことだけ、考えて」

今だけでも忘れてくれるなら、オレは――



「悟浄…」





「なんつって……ウソ」

そんなこと、できるわけないだろ。


一瞬八戒が大きく目を瞠った。
すぐにその顔が苦しげに歪むのを目にして、悟浄は薄い肩に手をかけた。
泣かせるつもりはなかったけれど、潤んだ碧の瞳が湖みたいできれいだと、ちょっと思う。



「悟浄」


八戒が搾り出すように名前を呼んだ。

安心させるように微笑んだ時、突然生温かいものが悟浄の頬を滑り落ちた。



「悟浄、あなた―」
泣いてますよ、と言われて初めて気付いた。



自分はこんなにも、この男のことが好きだったのか、ということに。











(2008.12.21)

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