アンダンテ
6.
ドアをあけて勢いよく駆け込んできた八戒は、肩で息をしながら無言で立ち尽くしていた。
汗で前髪が額に張り付いている。
一瞬、ガキみてえだなと考えた悟浄は、濡れたように輝く瞳が自分に向けられるのを見て思わず立ち上がった。
「どうした?」
泣いている?
いや、違うな。
これは、怒ってーー
「僕は今まであなたが大切にしてきたような、か弱い女性たちとは違いますよ!」
「は?」
「あんなこと、僕には不要です」
「あ…バレちゃった?」
俺の浅い考えなんかバレバレってか。
悟浄はヘラリと笑ってみせた。
だが八戒の怒りはおさまらない。
「一体何人騙してきたんですか?」
「はい?」
「何人の女性のために、あなたの、その危なっかしい優しさをたれ流してきたのかって言っているんです!」
つかつかと近づいてくると、八戒は悟浄の目の前に立ちふさがった。
「は、八戒?」
「僕だけにしてください。そして、これっきりにしてください!」
「何言ってるんだ?お前」
「すきだと言ってるんですよ、あなたが!」
怒りに任せたように言葉をぶつけられて、悟浄は目を瞬かせた。
八戒の言葉と表情は、まるで一致していない。
「はい?すきって…俺、まだ、なんもしてないけど?」
「しましたよ!」
「どういうこと?って…うわっ!」
悟浄はいきなりぶつかるように倒れかかってきた八戒を受け止めると、勢いでそのままソファに倒された。
腹の上に馬乗りになった八戒の瞳がキラキラしていて、見たことないほどきれいだった。
一瞬見惚れた隙に鼻先が触れ合う程に顔を寄せられていて、思わず肩に手をかけた。
「ち、ちょっと待て!これから俺が、磨き上げた手練手管でお前を落とそうと思ってた…」
「遅いです」
いきなり、かみつくようなキスが降ってきた。
「!」
一瞬で離れていった熱に、悟浄は目を瞠る。
「おまえ…いざとなるとダイタンなのな」
「誰のせいですか、誰の!」
褒めたつもりなのに、さらに怒らせた。
よく見ると、八戒の頬は赤く染まっている。
照れているのだと気が付いて、こっちまで体が熱くなった。
しかし告白しているというのに、この態勢はどうだろう。
まあ、こいつらしいか。
いつもの穏やかな微笑みからは思いもよらないような突飛な言動で、俺を魅了するきれいな男。
「あなたはご自分が自虐に走ろうが誰かのために傷つけられようが、勝手だと思っているのでしょうけど。僕はこの先、僕の大切な人が僅かでも傷つけられるのは許せないんですよ」
八戒は悲しげな瞳で、両方の掌に目を落とした。
その掌の先で自らの命を絶った女を想っているのか。それともその掌で奪った多くの命を思い出しているのか。
そっと息を吐くと、優しく目を細める。
「僕を大切にしてくれる気持ちがあるなら、自分のことも大切にしてください 」
自分を大切に?
そんなこと、考えたこともなかった。
この紅い髪も瞳も、背負わされた運命なんだと諦めてた。
俺の全てを受け入れて許してくれる奴なんて、いるはずないと思っていた。
でも目の前のこの滅茶苦茶な男なら、俺のちっぽけな絶望なんて笑い飛ばして――
いや。
この絶望ごと、受け入れてくれるのかもしれない。
「でもそれって、お前もな」
俺を想ってくれるように、俺にもお前を想わせてくれ。
「はい」
八戒は驚いたように目を瞠るとふわりと笑った。
それから大きく深呼吸をすると、いっそう頬を染めながら右手を差し出し深々と頭を下げた。
「お願いします。僕と付き合って下さい」
悟浄は差し出されたきれいな手を、しっかり握りしめた。