セロハン
9.
俺はリビングに戻ってソファに八戒を座らせた。
3袋分のラムネを詰め込んでいっぱいになった缶を膝にのせ、八戒は問いかけるように俺を見た。
「食べる?」
八戒は神妙な顔でうなずくと、缶の中から赤い包みを一つ取り出した。
たかがラムネだけど、こいつにとっては大事なものだ。そして俺にとっても。
白い指先からその包みを取り上げて、俺はそっとセロハンを開いた。
毒々しいセロハンから現れたのは、真っ白で素朴ななりをしたラムネが一つ。
ふわりと広がる懐かしい匂いは、ガキの頃口にしたものと変わっていない。
だがあの日から、ラムネは俺にとって全く違う意味を持ってしまった。
そして多分、八戒にとっても。
口元に運んでやると、八戒は遠慮がちに口を開いた。
形のいい唇に入れてやると、八戒はにこりと笑ってラムネを噛んだ。
八戒の口の中で、カリ…と小さな音がする。
白い塊は砕け、粉々になった欠片は飲み込まれ、あの時のように八戒の身体の一部となる。
ゆっくりと味わった八戒は、安心したように小さく息を吐いた。
右も左もわからなくなってしまった八戒をこの家に連れ帰ってすぐに、俺は近所の煙草屋でラムネを見つけた。
何年前から建ってるかわからないくらいボロいその店は、夕方になると近所のガキ共が百円玉を握りしめてやってくる駄菓子屋も兼ねている。
その店の片隅に、忘れ去られたみたいにそれが置いてあった。
カラフルといったら聞こえはいいが、趣味の悪いドギツイ色のセロハンの中身が、意外な程素朴で素っ気ない姿をしていることを思い出して心が動いた。
どことなく、アレに似ているからだろうか。
気まぐれのように一袋のラムネを買ったのは、もしかしたら八戒の記憶が戻るかもしれないなんていう期待があったわけじゃない。
ただ―
「ほら、お土産。お前これ、好きだったんだぜ」
そう言って手渡したラムネを、八戒は疑うことなく口にした。
おいしいです、とふわりと笑って、白い塊をいくつも口に放り込んだ。
その小さな白い塊を形の良い歯が噛みしめる音を聞いて、俺は、八戒がラムネを喰うところを見たかっただけなんだと気が付いた。
まるで俺自身を喰うみたいに。
つまり俺は、骨になった花喃にまで嫉妬していたってことだ。
「もう一つ喰う?」
コクリと頷く八戒のために、また一つ包みを剥いだ。
いつの間にか八戒の膝の上は、毒々しいセロハンが何枚も重なっている。
不意に指先を舐められて、心臓が大きく音をたてた。
「ご、ごめんなさい!」
ラムネと間違えちゃって…と、真っ赤になってオロオロする八戒が愛しくて、思わず抱きしめた。
腕の中で驚きに固まる細い身体を引き寄せると、八戒は潤んだ瞳で俺を見返した。
こいつの気持ちはわかっている。
自身のことさえ思い出せない八戒が、俺の名前と俺への想いだけは覚えていてくれたことに、暗闇の中で光を見たような気持ちになった。
だけど俺には、その想いを受け取る資格はない。
何より、あの女が許さない。
腕の中の懐かしい温もりに口づけたい衝動を堪えて、俺は八戒の口の端についたラムネの粉をペロリと舐めた。
ますます真っ赤になった八戒は、俺が舐めたところに指を当てて俯いた。
「ガキみてえだな。そんなにコイツが好きなの?」
「ええ…どうしてなんでしょう?」
「さあ、何でかな?」
アレに似ているからかな。
ラムネを食べて落ち着いたのか、八戒は部屋のあちこちに残る自分の痕跡に気が付いたようだった。
ああ、とか、もう、とか言いながらボトルとグラスを片付け、鞄とコートを仕舞って、散乱した缶詰やレトルト食品を棚に詰めなおす。
俺はビールの缶を空けながら、その様子を眺めていた。
「そういえば、将来有望な官僚サマはどうだった?」
「聞いて下さいよ、悟浄!」
八戒はソファに戻ってくると、目をきらきらさせながら話し出した。
「それがとっても素敵な人だったんですよ。スマートで大人で優しくて。きっととても優秀な方なんですね。しかもとってもきれいな恋人がいて…」
これがまた優秀な刑事で、命を狙われているのだという。
「近いうちに警察署を出た所で狙撃されるかもしれないとお伝えしたんですけど、信じてくださったかどうか…。何事もないのが一番なんですけどね」
それだけ見えたってことは、やっぱ寝たんだよな。
「あ、でも、あなたの方が百倍いい男ですよ」
八戒は他の男に抱かれた体で無邪気に笑った。
学生の頃から際だってきれいな顔立ちで頭もキレた八戒は、妬まれることも多く、性的な揶揄や嫌がらせの標的になることがあった。
だが見かけによらず腕も立った八戒は、そんな奴らに容易く触れさせたことはなかった。
羨ましいくらいモテたくせに、病気に近い潔癖さで言い寄る男女を振りまくっていた。
花喃と俺を除いては。
あのガチガチの貞操観念は、どこへ行っちまったのか。
あの日から、八戒のどこかが壊れてしまったのは確かだ。
でも何も心配ない。
たとえ記憶が無くなっても。妙な力を手に入れても。この腕に抱けなくなっても。
俺も花喃もいつもお前の傍にいる。
俺たちは、ずっと離れることはないから。
耳の奥に、ふと、花喃の声が甦った。
“悟能…寂しいな”