セロハン
8.
マンションのドアを開けたら、煌々と灯りがついていた。
八戒にしてはめずらしい。
しまりやなところは記憶をなくしても変わらないみたいで、いつも“無駄な電気は悪です”とばかりに、まめに家じゅうの電気を消して歩いてるのに。
三和土の自転車が倒れていて、いつもはきちんと揃えてある靴が、無造作に脱ぎ捨てられている。
「八戒?」
呼びかけても返事がない。なんとなく嫌な感じがして、急いでリビングのドアを開けた。
見慣れたコートと鞄が床に放り出してあって、白いローテーブルの上には、緑のボトルとワイングラス。
中身は両方とも空だった。今朝までほとんど入ってたワインを、あいつ一人で空けたってか?
キッチンを覗くと買い置きを入れてある棚の扉が開いていて、床に保存食が散乱していた。
あぁ、やっぱり、アレを探してたんだな。
そういやあ、昨日開けてやったのが最後の一袋だったと考えて、舌打ちをした。
「おい、八戒っ!」
返事がないことに焦りつつ、トイレや浴室、八戒の部屋と次々にドアを開けていく。
最後にリビングに戻ってきて、自分の部屋のドアを開けたら、八戒がいた。
床にぺたんと座り込み、胸に抱えたお気に入りの缶を覗き込むようにうつむいている。
その瞬間、忘れられない光景が甦った。
白い陶器の壺を胸に抱きしめて、泣きながら俺を見上げた瞳。
足りない骨片。耳に残る小さな音。
あの女の名前を呼んだ時のきれいな微笑み。
意識を失った身体を支えた時の鉛のような重さ。
腹の底が冷えるような悲しみと喪失感――。
「おかえりなさい、悟浄」
気がつくと八戒がほわんとした表情で俺を見上げていた。
立ちすくむ俺に、にこにこと笑いかける。
「早かったですね。今夜はお仕事でしたっけ?お腹空いていませんか?こんな時間だから、何か軽いものでも作りましょうか。あなたの好きな焼き鮭のお茶漬けとか。それとも少し飲みますか?さっきワインを空けちゃったんですけど…そうだ、僕ちょっとコンビニに行ってきますね」
何かにつかれたように一気にしゃべると、八戒はすっくと立ち上がった。
「もうなくなっちゃったんですよ、ラムネ」
ひどく悲しそうな顔をして、缶を逆さにして見せた。
「そこのコンビニなら売り切れだぜ」
「ええっ?」
泣きそうな顔でますます缶を抱きしめる八戒の頭を、安心するように撫でてやる。
「俺が全部買ってきたからな」
手にしていたビニールの袋からラムネの包みを取り出して見せると、八戒の表情がぱあっと明るくなった。
「わぁ…ありがとうございます」
手渡すと、嬉しそうに袋を開けて缶に詰め始める。
赤や黄色、青、緑といった派手な蛍光色のセロハンで満たされてゆく缶を見て幸せそうに微笑む姿は、まるで子供みたいだ。
その横顔には、記憶をなくす前には確かに持っていた鋭い牙や時に見せた冷たさの欠片も見当たらない。
記憶を失くした5年前のあの朝から、八戒は人当たりのいいおっとりした好青年になってしまった。
以前のこいつをよく知る三蔵なんかは、耐えがたいといった顔をして言いたいことを飲み込んでるみたいだけど、俺はこんな八戒も気に入っている。
もともと皮肉屋だったり変に攻撃的だったりしたのは、繊細な精神を守るための仮面だったんだろう。
その下には、今のように素直で穏やかな面も潜んでいたってだけのことだ。
それに記憶を失くしても、どんなに性格が変わっても、あの女に連れて行かれるよりはいい。
八戒の一部を攫っていった女は、随分と軽くなって桃源寺で眠っている。
いや、眠ってなんかいねえか。
今日も線香くさい小さな納骨堂で、5年前と全く変わらぬ毒舌で俺に恨みつらみを投げつけてきやがった。
たっぷり一時間魅力的な悪態につきあった俺は精根使い果たした気分だったが、八戒の笑顔を見たら、そんなもんどうでもいいって気持ちになる。
八戒が笑って傍にいてくれるなら、俺は何だってする。
花喃。
あの女にこいつは渡さねえ。
ある日突然、思いもかけない形で花喃は俺たちの前からいなくなった。
通夜、本葬、荼毘と光明に世話になり、その間驚くほど気丈に振る舞っていた八戒は、ある夜白い壺に収まった花喃を抱いたまま動かなくなった。
「“寂しいな”って…花喃が、言ったんです」
八戒は白い壺をきつく抱きしめて、その壺よりも真っ白い顔をしていた。
「事故が起きるすぐ前に、“寂しいな”って…笑顔で…」
虚ろな瞳を上げた八戒は、何かを探すように視線を彷徨わせた。
「僕も…行ってあげなきゃ。花喃が寂しがっているから―」
立ち上がろうとしてふらりとよろめいた八戒を抱きしめて、俺は唇を噛んだ。
元々俺ら3人が2つに分かれようとしたことに、無理があったのかもしれない。
俺か花喃かどちらか選べと迫った時の、ひどく悲しそうな八戒の瞳を思い出した。
元々一つだったという魂を引き離そうとしたことが、全ての元凶だったのかもしれない。
それでも俺は、どうしてもこいつを手放したくなかった――。
「いい方法がある」
俺は耳元に囁くと、八戒の腕の中の壺に手を伸ばして蓋を開けた。
驚いて止めようと伸ばした八戒の指を逆に捉えて、握りしめる。
氷のように冷たい指が、俺の掌の中で震えていた。
「こうすれば、ずっと一緒だろ」
迷いはなかった。
あのまま花喃にこいつを連れて行かれるのだけは、ゴメンだった。
ほんの少しの力で指先で砕けてしまいそうに脆く軽いそれを口に運ぶ俺を、八戒は目を瞠って呆然と見ていた。
味なんて覚えちゃいねえ。
ただ、八戒をこっちに引き止めたくて。あの女に渡したくなくて。
俺は花喃の骨を喰った。
八戒は瞬きを忘れてしまったように俺を見つめてから、コクリとうなづいた。
それからふわりと笑うと、迷いなくきれいな指を壺の中に入れた。
「花喃、もう寂しくないかな?」
「ああ、ずーっと一緒だ」
白い塊が砕ける小さな音。
何度も名前を呼ぶやさしい声。頬を滑りおちた涙。
消え入りそうに頼りない身体を抱きしめた俺の腕の中で、八戒が意識を失ったのはその直後だ。
名前を呼んで身体を揺すり頬を叩いても、薄い瞼は閉じたまま、ただ規則的な呼吸を繰り返すだけだった。
光明の知り合いの怪しげな病院に運び込んで検査や治療を試みたが、八戒は目を覚まさなかった。
そして3日目の朝、目を覚ました八戒は、すっかり記憶をなくしていた。
俺はひどくショックを受けた。
人の道を外れた俺たちに、天罰が下ったんだと思った。
だが次第に、辛い記憶から逃れられたのだから、八戒にとっては幸いだったと思うようになった。
あのまま悲しみに囚われ続けていたら、こいつは花喃の後を追っていただろう。
今でも八戒は、自分たちは仲のいい姉と弟だったと思っている。
姉と弟以上の禁忌の関係だったなんて、思ってもいないだろう。
これでよかったのかどうか、わからない。
俺なんかと違って頭もよくて将来有望だったこいつが、全てを捨てて身体を売るようなことを生業にしているのが歯がゆくて我慢ならないという、三蔵の怒りも尤もだと思う。
でも、俺が愛した八戒は、今でも確かにここにいる。
罪悪感も後悔も、苦しみはすべて俺が引き受けるから。
八戒はただ、笑っていればいい。